おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

桜馬鹿~君よずっと幸せに

荘川桜の移植についてご紹介するにあたって、岐阜県に建設された「御母衣(みぼろ)ダム」の説明をしないといけません。

戦後の日本復興にあたって電力が慢性的に不足していたことから、日本国内の電力供給促進のため昭和二十七年(1952)「電源開発促進法」が成立しました。

その法律に基づいてこの年の秋、特殊法人電源開発株式会社」(現在の「Jパワー」)が発足し、日本各地に水力発電のためのダム建設が進んでいきました。

日全国でダムの建設が進みました(写真は八ッ場ダムで関係はありません)

その候補地の一つに岐阜県大野郡白川村と荘川村にまたがる地域がありました。いずれの村でもダム建設に対しての反対運動が巻き起こります。先祖から受け継いだ土地を奪われてしまうことへの抵抗(荘川村で230戸)は激しいものでした。「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」を結成、一歩も引かない姿勢で交渉は膠着状態となります。

電源開発初代総裁、高碕達之助は反対派との対談を粘り強く繰り返しました。高碕総裁は第二次鳩山内閣経済審議庁長官でもあり、村民の気持ちと国の経済復興の板挟みになりながら、時には涙を流し真情を訴え、理解を求めたのです。

阪急宝塚線雲雀丘花屋敷」にある高碕記念館(邸宅)

対話は7年にわたって続けられ、高碕総裁の誠実な態度に打たれた「死守会」は態度を軟化させ交渉に応じることとし、昭和三十四年(1959)11月会を解散します。

それは「解散会」の11月22日の出来事でした。

解散式の写真(高碕記念館展示より)右から二番目が高碕総裁

「死守会」で書記を務め、最も強硬な態度であった若山芳江さん(写真左端)達と水没予定の地域を歩いた際、高碕元総裁(5年前に総裁を退いた後も住民たちとの話し合いに出向いていただけでなく、解散会にに招待されていました)は光輪寺というお寺に巨木がそびえているのを目にします。樹齢400年以上のエドヒガンザクラでした。

この樹を見た瞬間、「なんとかして救いたい」と感じた高碕元総裁は同行の電源開発社員にその意を伝え、その後一人の専門家に手紙を送り、相談をもちかけました。

それが「桜博士」「桜男」の笹部さんでした。

この続きは次回で。