おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

桜馬鹿~君よずっと幸せに4

昭和三十五年(1960)4月、ダムの堤防上の芝貼りを任されていた植木職人丹羽政光さんに電源開発の職員が声をかけます。丹羽さんは佐久間ダム建設で周辺の植樹等に実績のあった「庭政造園」の親方でした。

「お寺の桜を電源開発で移植することになっているんだが、やってくれる人がいないんです。お願いできませんか?」

親方は光輪寺に桜を見に行った後、弟子七人を集めて一言言いました。

「桜をやるぞ」

東海一と言われた植木職人 丹羽政光さん(高碕記念館展示より)

笹部さんは、この東海一といわれた親方と大阪倶楽部で話し合います。「見るからにがっしりした躰つき頼もしく」感じたと書き残しています。丹羽さんのこれまでの実績を認めながらも、桜はそう簡単にはいかないことを伝えつつも、

「あなたのような名人なら、老桜の移植もできるかもしれない」

と一冊の古書を渡します。それは江戸時代の本草学者、貝原益軒(かいばら えきけん)が植物栽培・移植について著した書物「花譜」でした。

笹部さんが宝塚市武田尾に所有していた亦楽山荘

それに対して丹羽さんは

「このような桜の老樹の移植に携わることは、庭師として光栄である」と述べたうえで

「細心の注意を払ってするが、多少の手荒い作業となってもご了承願いたい」

とも伝えています。

ダムに沈む村を調査した笹部さんは、光輪寺の桜とは別に2キロほど下流の照蓮寺にもほぼ同じ樹齢と大きさのエドヒガンを見つけ、こちらも併せて移植することを決めていました。二本のうちどちらかでも活着してくれれば、という想いだったのでしょうか。

一方親方は「花譜」に書かれていた「桜は赤土、黒土がよし」「日当たりは山の傍ら、谷の裏(がよし)」の言葉を頼りに桜の移植先を探します。そしてダムに沈む荘川村を見渡せる山の斜面が適地と考え ここを移植地に決めました。これが6月のことで、移植工事開始リミットは11月。

昭和三十五年(1960)11月15日から桜の移植作業が始まりました。桜の移動距離は直線で600m、高低差は50m以上。まずは桜の掘り起こしから作業が進められていったのですが、この続きは次回で。