昨日、このブログ用に阪急宝塚線「雲雀丘花屋敷」にある高碕記念館を訪ねました。丘の斜面(この周辺すべてがそういうお屋敷なのですが)に造られた邸宅で庭からの眺めが素晴らしいだけでなく、ヴォーリズの設計建築として知られます。
実はここには1月にも訪れたことがあり、そのときは建物改修中でした。今回、建物の中を見学するには予約が必要なので、外観だけ撮影をするつもりだったのですが、門にこのような貼紙(?)がありました。建物全体には入ることはできないものの、玄関ホールとすぐ横の一室のみ「荘川桜」の展示をおこなっているとのこと。前回の「死守会解散式」の写真などはこの展示から使わせていただきました。
昭和三十五年(1960)早春の事、高碕元総裁と笹部さんは大阪淀屋橋にある「大阪倶楽部」のホールの一隅で会い、具体的な相談を持ち掛けます。たった5分ほど話し合いでした。
桜を写した一枚の写真を見せ、高碕元総裁は話を切り出します。
「笹部さん、電源開発が予定しているダムの工事のために、ダムの底に埋められようとしている桜を、なんとかして活かして残したい」
写真を一目見て樹齢四百年以上の古木であると認識した笹部さんは「これはえらい注文や」と心の中でつぶやきました。
「活着の見込みはありますか?」
と問う元総裁に
「このような老木をどのような研究者にご相談されても、自信もって可能やと言い切れる人はおへんですやろ」
「あなたはどうですか」
高碕総裁は続けます。
「絶対に駄目ですか?」
「絶対、などという言葉は、こと活き物に関する限り、いやしくも私は使いとうはおまへんな」
そして、元総裁の真剣なまなざしについ、
「やってみまひょ、やったらよろしいんでっしゃろ」
笹部さんの自伝「櫻男行状」には、その時の回想が述べられています。
「私の顔を見ながら、私の答えを待っている。私はハッとして今更ながら取り返しのつかない軽はずみな放言を悔いてみたが、事ここに到っては、もはやどうなるものでもない。思わず『私でよろしくばやってみましょう』と答えるほかなかった。ものの勢いである。(中略)私も男のはしくれだ、ままよ、どうとでもなれ!やれるだけはやってやろう。こうした機会はまたとは来まいと胸を張るかと思えば、不運にもこれに失敗したら、私は今後はもう桜を語るまい、としょんぼり肩を落としもした」
こうして元総裁に乗せられた形で笹部さんはこの桜の移植に関わることになりました。この続きは次回で。