おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

涙、武士だよ人生は9

「ディアナ号」から救出されたロシア人乗組員約500人は陸路戸田村へと向かいました。一方幕府から造船の指揮を任じられた英龍も、12月6日韮山の地から戸田へと向かいます。

戸田で西洋船建造の方針が決められました。「ディアナ号」に乗船していた技術将校モジャイスキー大尉の指導の下、ロシア人乗組員の中の工学士、士官等が設計を担当し、それに戸田村の船大工らが同席しました。計画では戸田の7人の船大工を世話人に、伊豆・駿河の各港の船大工約100人を動員し、約100トンの洋式帆船二隻を100日で建造するというものでした。

英龍は韮山と各地を忙しく飛び回っていました

英龍は方針を確認した後、建造は戸田村の日露の技術者に任せ、11日韮山に戻っています。台場の建造、反射炉の建造と、韮山塾での後進への教授や地震で大きな被害を受けた支配地への復旧のための指導に加え、西洋船の建造という新たな使命が科せられていました。

この時韮山に戻ったのも、幕府から出府するよう命じられたからですが、この時連日の激務で風邪をこじらせており、出府ができるような健康状態ではありませんでした。

その後幕府から出府督促が届き、周りの反対を押し切り、13日に英龍は韮山代官所を後にして江戸に向かいます。しかし無理を押しての道中は更に病状を悪化させ、本所の江戸屋敷に到着した時には起き上がることもできない状態です。

本所江川屋敷跡 すみだ北斎美術館のすぐ近くに案内板が立っています

疲労の蓄積で風邪をこじらせ、肺炎を併発した症状で、屋敷には大槻俊斎、伊藤玄朴といった親交のあった蘭科医がその治療にあたりました。病状は一進一退のまま、新たな年を迎えます。そして回復することの無いまま、安政二年(1855)正月16日、英龍は西洋船も反射炉の完成を目にすることなく、本所の屋敷でこの世を去りました。享年55。

江戸屋敷跡の案内板

次回以降、英龍死後の西洋船建造と反射炉完成までをご紹介します。

涙、武士だよ人生は8

英龍はその申出を受けました。宮島村から戸田村までの海沿いの漁師たちに、漁船で「ディアナ号」の曳航に協力するようお触れを出し、12月2日早朝、百艘以上の漁船・荷船が宮島村沖に集まりました。「ディアナ号」に数本の元綱をとりつけ、そこから綱を枝分かれさせて漁船・荷船に結び付け、午前8時ごろ曳航を開始しています。

最初はびくともしない「ディアナ号」でしたが、一度動くと勢いがついたのか、すこしずつ進み始め、東へ向かっていきます。

何もなければこのまま曳航作業は成功したのでしょうが、大型の日本船に乗って曳航作業に付き添っていたプチャーチンは、11時過ぎに、漁船が結ばれていた綱を切って、海岸方面に逃げていくのを目撃します。漁師たちは沖合から黒雲が近づいてくるのを見て、このままでは危険だと判断したのです。

荒天の中、曳航作業は失敗に終わります(写真は茨城県大洗海岸のものです)

予測した通り、豪雨と強風が巻き起こり、曳航に参加していた船たちもかろうじて近くの湾内に逃げ込みました。「ディアナ号」は座礁した元の位置近くに押し流された後、転覆しそのまま沈没してしまいました。

自分たちの船を失ったプチャーチンたちに対し、英龍は沈没船を海底より引き上げ、戸田村まで修理してはどうか、と提案しました。しかし、プチャーチンは、「ディアナ号はもう修理が不可能なため、放棄する」と答え、「その代わりに」と、幕府を驚かせる申し出を行います。

戸田村で新たに西洋船を建造し、それで一部の乗組員がロシアに航海し、帰国用の迎船を呼びに行く」「ついては建造用の資材や道具等を提供してほしい」というのです。

評議の結果、それを認めざるを得ないだろう、という意見で一致し、日本の一漁村であった戸田村で西洋船を建造する、という国境を超えた一大プロジェクトがもち上がったのでした。

 

涙、武士だよ人生は7

宮島村の村民たちが、海岸に近づいたボートに向かって泳ぎだします。ボートに結ばれた太いロープを手に取ると、今度は浜向かって引き返し、浜に残っていた男女に渡すと一緒にロープを浜の松の木の幹に結び付けました。

2日間かけてディアナ号乗組員の救出作業は続けられ、ボートや、甲板に残った船の破片で筏を作って船と浜を往復し、浜では村民たちが引き上げていいきました。奇跡というべきか、乗組員に一人の死傷者もなく救出作業が完了したのです。

ディアナ号に乗船していた司祭マホフの「ディアナ号航海誌」には、この時の様子について、これまでのいきさつの後、日本人への感謝が述べられています。

「あなた方のおかげで唯今生き永らえている私たちは、1855年1月4日の出来事を肝に銘じて忘れないであろう」

乗組員全員がディアナ号を離れ、浜辺へ引き上げられましたが、皆ずぶぬれです。宮島村先の地震で大きな被害を受けていましたが、できうる限りの援助を行いました。

プチャーチンの報告書にも「宮島村では、地震のために破損しなかった家は一軒も残っていない有様だったが、かれらの人間的心労のほどは、とうてい称賛し尽くしがたいものがあった」と感謝の言葉が残されています。

日本ではこの間11月27日に改元が公表され、安政元年となりました。

菩提寺本立寺にある英龍の石像

英龍は宮島村からの報告を受け、まずは代官所から手代を向かわせた後、自らも現地に急行しています。英龍からの連絡を受けた川路聖謨も現地に人を派遣し、英龍に協力し、プチャーチンを始めとする一行に対応するよう命じています。

英龍は乗組員たちを近くの村や民家を収容しますが、前述のとおり地震で倒壊した建物が多く、思うままの手当てはできませんでした。支配地全体の被害とその救済も、彼の肩に重くのしかかっていました。

更には宮島村沖に座礁したディアナ号について、プチャーチンから戸田港まで曳航してもらえないか、との依頼を受けます。自力走行がすでに不可能となっているため、荷船や漁船を動員して、引っ張っていってもらえないか、というのです。

 

涙、武士だよ人生は6

この戸田の地が修理港として選ばれた最大の理由として、海に面した西側以外の三方が山に囲まれており、英仏と交戦中のロシア船ディアナ号にとって、敵の目に触れにくいということがありました。

Google mapより 下田の反対側で、韮山のある伊豆の国市から近い位置です

大破したディアナ号は、英仏の軍艦に見つかって攻撃されたらひとたまりもありません。「見つからないこと」が条件となるのは当然のことですね。戸田港の周辺地図を拡大すると、更によくわかります。

拡大すると この地が選ばれた理由がよくわかります

南から北に向かって御浜岬が突き出ていることから、湾口が狭くなっていて、外洋からは見通せない地形になっています。加えて内側は砂浜で砂浜は遠浅で、巨大な船の底部を横倒しにして修理するのに適しており、うってつけの場所でした。

嘉永七年の11月26日朝、前日からの雨の降り続く下田港を付添いの日本船と共に出航しました。伊豆半島の最南端である石廊崎の沖を回って北上したところまでは良かったのですが、そこから先は風が不規則で思うように進むことができません。

日が没してからは南西からの強風により、海は大しけとなりました。

海は荒れていました(この写真の海岸は茨城の五浦海岸で関係ありません)

ディアナ号は代用の舵(元の舵は地震の際の津波で破損したため、代用の舵で操船を行っていました)の操作で西伊豆の海岸に激突するのを防いでいたものの、その舵も使い物にならなくなり、27日の午前三時ごろディアナ号の航行は困難となり、すべての帆を下ろし投錨しました。付添いの日本船も帆が裂けるなど危険な状態となり、その場を離脱して近くの陸地に乗り上げてしまいます。

残されたディアナ号の乗組員は、船への浸水をポンプで排水しますが、深水は止まらず、その間船は北へと流されていきました。27日の朝方に宮島村(富士市)沖合約180Mの位置にいましたが、夜に入り翌日の朝を迎えたところで、深水の止まらない船は沈下し始めます。

士官たちは協議し、大型ボートを下ろして、航行不能となったディアナ号を北の宮島村まで引いていくことにしました。ボートはディアナ号と太いロープを結び付け、浜を目指して進んでいきます。

浜には多くの村民たちが集まっていました。近づいてくるディアナ号とボートが気になっていたのでしょう。村民は沖の船がどういう状況か、そしてこのボートが何をしようとしているのかを察しました。

村の男たちは波に流されぬよう、自分たちの身体に綱を巻きつけ海に飛び込んでいきました。国境を超えた救出作業が始まりました。この続きは次回で。

 

涙、武士だよ人生は5

この下り、話の内容にまつわる写真がなく、無理やりこじつけた写真が混じりますがご容赦ください。
安政東海地震後の津波で、ディアナ号は前回ご紹介の損傷の他、大砲の下じきとなった水兵1名が死亡、2名が重傷を負った、と記録されています。

大和ミュージアム 戦艦大和模型 この時期は大砲は固定されています
現在の軍艦のイメージだと、砲塔に固定されている艦載砲ですが、当時は甲板上に置かれて動かないようにロープで固定している状態です。「大砲の下じきになった」とは、艦が津波によって旋回した際、固定ロープが外れたか切れたかで甲板上を暴れるように動いて水兵を下じきにしたものでしょう。

固定のためのロープが切れ、鋼鉄の塊が甲板上を暴れまわりました
致命的な損傷を負ったディアナ号の乗員約500名は、下田の町民の助けにより救助され上陸することができました。一方でディアナ号の船員たちも、津波に巻き込まれた下田の町民を救助したりと、国境を超えた助け合いがありました。
このままでは帰国もままならないプチャーチンは、幕府に対してディアナ号の修理を願い出ます。幕府もこの状態を放っておくことは国際上の信義にもかかわることなので、帰国の航海ができるように船を修理することに同意します。が、問題はどこの港で修理を行うか、でした。ディアナ号のいる下田港地震で壊滅的な被害を受けており、この場所で修理を行うことはできません。ロシア側も下田港では外洋から艦影が丸見えであり、英仏の軍艦に見つかる可能性のあるこの場所は避けたいと考えていました。
ロシア側は修理の候補地として、掛塚、浜松、浦賀などの案を提示しますが、前の二つは東海道の治安上の問題から認めるわけにいかず、浦賀は江戸に近いということで、徳川斉昭などの開国反対派が頭を縦に振りません。
そこで、伊豆半島の浦々を調査した結果、戸田浦(へだうら:田方郡戸田村)を修理地とすることに決定しました。
ディアナ号のその後が続きます。
 

涙、武士だよ人生は4

プチャーチンが幕府の要請を受けて下田に来航したのは10月14日のこと。これまで表記してきた日付は日本の暦によるもので、ロシアを含むヨーロッパの暦では12月3日にあたります。ここでその話をしたのは、ここから先、日本暦では年末なものが、西洋暦では翌年の正月にあたる、というギャップが生じています。

下田の地で、プチャーチンの交渉相手となったのは、前年12月と同様に川路聖謨筒井政憲らでした。プチャーチンは、アメリカと日本が条約を結んだことを知っており、長崎で合意した、「日本が他国と通商条約を締結した場合には、ロシアにも同一の条件で条約を締結」するよう求めます。

このころ英龍はというと、お台場築造が志半ばながらもいったん終了し、韮山反射炉の築造に向けて指図を行っていた時期です。

ロシアとの交渉が始まった直後の11月4日、西洋暦では12月23日という年の瀬に、下田を含む伊豆、駿河遠江などに大きな被害をもたらした「安政東海地震」が発生しました。午前9時15分に発生したというこの地震の規模はマグニチュード8.4と推定されています。東海道の三島宿では宿内一軒も残らず潰れ、町中は一町余り焼失、水を噴出す場所もあったと伝わっています。

韮山の江川邸は、高さ12メートルの大屋根を豪壮な木組みが支えており、倒壊することはありませんでした。しかし、英龍の管轄する伊豆の地は大きな被害を受け、被災民の救済にも追われることとなりました。

江川邸の屋根を支える木組 大地震にも耐えました

ロシアとの交渉地となっていた下田は更に大きな被害を受けています。地震による建物の倒壊もさることながら、5メートルを超える高さの津波が何度も押し寄せ、全戸数856のうち前回流失した家屋が813戸といいますから、殆ど全滅状態でした。

津波は港内に停泊していたディアナ号にも押し寄せ、2000トンもある大鑑が津波の渦に巻き込まれて回転し、マストは折れ、舵や竜骨は破損し浸水するなど、航行が不能な被害を受けました。次回、ディアナ号のその後です。

 

 

 

涙、武士だよ人生は3

プチャーチンは長崎⇒上海に移動しますが、長崎に滞在しているとクリミア戦争の様相やアジアにおける、敵国イギリス・フランスの情報を入手することができない他、船のメンテナンスもできない状態だったからだと思われます。

その間、英龍は品川台場の築造に関わっているので、この時点ではロシア艦隊の来航の情報は知っていても、直接関わることはありませんでした。

12月に長崎に再来航したプチャーチンは、幕府の対ロシア交渉全権代表、川路聖謨(かわじ としあきら)と筒井正憲(つつい まさのり)と会談を行いました。

ペリーの再来航を控えた時期であり、交渉はまとまらなかったものの、将来日本が他国と通商条約を締結した場合には、ロシアにも同一の条件で条約を締結する、という合意で決着しています。いったんロシア艦隊は長崎を離れ、マニラに向かい、船の修理や補給を行います。英龍が台場築造に加え、反射の築造にも取り掛かった時期です。

第三台場の竈跡(手前左)および陣屋跡(奥)

ロシア艦隊はその後北上し、自国領のインペラトール湾に入ります。艦隊は4隻からなっており、これまで旗艦としていた「パルラーダ号」は老朽化した木造船でした。そのため、次回の日本への航海のため。本国から回航されていた「ディアナ号」に旗艦を乗り換えています。そのまま4隻での艦隊行動はとらず、それ以外の艦船は現地に残り、旗艦1隻のみで三たび日本に向かいました。3月にアメリカが先に日本と和親条約を結んだ、との報が入り、焦っていたかも知れません。

インペラトール湾は、アジア大陸の沿海州樺太の対岸あたりにあり、南下して日本を目指します。長崎まで向かう余裕がなかったのか箱館に入港したのが嘉永七年8月のことでした。しかし、同地での交渉を拒否されたことから、ディアナ号は大阪に向かいます。翌月には大阪に到着、大阪も大騒ぎになります。大阪奉行から下田に回るよう要請を受けたプチャーチンは、日本との関係を悪化させないよう配慮しつつ、今度は下田に向かって船を進めていきました。

ディアナ号が下田に入港したのは、10月14日のことでした。英龍にとってはまた新たに問題を抱え込んだと思ったことでしょう。

ディアナ号の話が続きます。