おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

分かれても数奇な糸2

父新右衛門が大坂で起こした事業は、善兵衛秀成(次男)・又右衛門之政(三男)・善右衛門正成(八男)が引き継いでいますが、善右衛門が九条で海運業を始めたのが寛永二年(1625)とされていますが、その頃まだ二十歳前の若者です。父が大きくバックアップしたのではないでしょうか。

江戸時代の大坂市街の絵図 左側が北です(大阪くらしの博物館)

上の地図で、分家をたてた「今橋」近辺の拡大図がこちら。

上の地図の左上部分の拡大 「大川」の右下に赤く「鴻池」(シワで見づらい)

元の地図の下が西側で、海のある方ですが、そこを拡大したのがこちら。

元の地図の下(西)の部分拡大

河口に浮かぶ島の中央すこし左側に「九條」の文字が見えます。この場所から江戸へ向けての海運業を営みます。最初は家業である酒を運ぶために海運業を始めたのですが、酒以外の消費物を江戸に運ぶようになり、さらには西国の大名の参勤交代にかかる輸送なども行うようになりました。明暦二年(1656)には酒造りは廃業し、両替商を始めています。

「両替商」とは「両替」を「商う」ということですが、海外と交易をおこなっているわけではないので、外貨と邦貨を交換する役目は果たしていません。日本国内で流通する金(小判など)と銀(丁銀)と銭(銅貨)を交換するわけですが、これについては江戸時代の貨幣制度について説明しないといけませんが、それは次回で。

 

分かれても数奇な糸

鴻池家の始祖、新右衛門(新六)は子宝に恵まれ、8男2女をもうけました。発祥の地、伊丹の酒造業を継いだのが七男の元英(もとひで)で、これが本家に当たります。他の子どもたちも六男が出家したのを除いてあとは分家をたてたり、他家へ嫁や養子に入る等でそれぞれに自立しています。

前回ご紹介した、茨住吉神社の本殿 洪水の被害対策で階段の上に建っています

長男:清直(きよなお)は、現在の宝塚市、阪急売布神社(めふじんじゃ)~清荒神きよしこうじん)の線路南側のあたりの小浜(こはま)村に分家し、「小濱山中家」を名乗っています。

赤いマークが「小浜宿資料館」の位置です

分家したのが慶長十九年(1614)で、大坂冬の陣の年といいますから、父新右衛門(新六)が大坂に進出するより5年も前の事。新兵衛と称し、この地で酒造業を営みました。

次男:秀成(ひでなり)父と同じ年に大坂和泉町に分家、そこで醸造業を営みました。善兵衛を名乗り、「山中善兵衛家」の初代当主となっています。

三男:之政(ゆきまさ)父の大阪進出に先立つ元和三年(1617)に大坂和泉町に分家したということは、上の秀成が分家の時には、すでに同じ町内にいたことになりますね。「鴻池又右エ門」を名乗り、彼も醸造業を営んでいます。寛文元年(1661)に兄弟・一族の協力を得て、山中・鴻池家の菩提寺となる「顕孝庵」(けんこうあん)を建立しました。

鴻池家の墓地がある顕孝庵

四男:政勝(まさかつ)伊丹鴻池村の北側にあった荒牧(あらまき)村に分家し、荒牧政勝・治郎右衞門を称しています。

五男:山中正代(まさよ?)寛永年間に大坂に分家、與右衞門を称しました。

六男:山中新太郎(しんたろう)黒田姓を名乗ったのち出家し僧侶となりました。

七男については冒頭で述べた通り、伊丹で本家を継ぎました。

八男:正成(まさしげ)父と同じ時期に大坂に出た時は、まだ10歳そこそこでした。寛永10年(1633)に20歳半ばで分家しています。

この八男が分家したのが北浜の近く「今池」で、彼が「今橋鴻池」の初代鴻池善右衛門を名乗り、この家が富豪の代表格となるのですが、その話は次回に。

 

 

舟を呑む5

元和年間に大阪旧久宝寺町に店舗を出した鴻池新右衛門(新六)ですが、その約5年後の寛永年間には、西に4kmほどのところにある九条村にも拠点を持ち、そこで海運業を始めています。

さて、大坂の「九条」の地名。京都は北から一条から十条まで名称があります。京都の入口として知られる「三条」大橋や弁慶牛若丸の「五条」大橋、京都駅の出口名の「八条」口など。

茨住吉(いばらすみよし)神社 九条村の産土神社です

大坂には「一条」も「八条」もなく、いきなり「九条」。江戸時代のこの場所は、淀川が運んだ土砂が堆積し中州を形成していました。この中州は「なにわ八十島(やそしま)」と呼ばれ多くの島のような状態でしたが、その一つが「九条島」でした。

寛永元年(1624)この地域を幕臣香西晢雲(こうさい しょううん)が開発にあたります。この時に勧請したのが茨住吉神社、建立したお寺が竹林寺です。交友のあった儒学者林羅山(はやし らざん)によって「衢壌(くじょう)島」と名付けられました。

「衢」には「賑やかなちまた」を、「壌」は「土壌」の言葉からわかる通り、「土地」に通じます。友人である晢雲が開発する地域が繫栄するように、という願いが込められたのでしょう。が、「九条」となったのには、諸説ありますが「衢壌」があまりに難しすぎるので定着せず、簡単な字になったという説が有力です。

同じく九条の地に建立された「九島院」 竜宮門が特徴です

鴻池新右衛門(新六)はこの地が開発されるのとほぼ同時期に、拠点を設け、海運業を始めています。自分のところで作った酒を自ら船で江戸へ運ぶことにしたわけですね。

酒以外にも江戸への商品輸送を行っていきますが、さらに追い風が吹きます。寛永十二年(1635)に三代将軍徳川家光が「参勤交代」を制度として命じました。

これにより、西国大名からの輸送依頼を引き受け、大いに成長していきます。正保元年(1644)に高野山にて授戒、2年後妻を失いますが、そこからさらに5年後の慶安三年にこの世を去りました。彼の子孫の話については次回に。

 

舟を呑む4

菱垣廻船の模型など展示がないか、あったら見に行って写真を掲載しようと思ったのですが、結論としては、「見つからなかった」ので、「菱垣廻船」と並んで江戸時代の海上運送の主役となった「樽廻船」の写真を。いずれも「弁才船(べざいせん)」といわれる大型の木造帆船で、構造上大きな違いはありません。(菱垣廻船は舷側に木製の菱組格子の装飾があるのが特徴です

樽廻船模型展示(西宮市郷土資料館館)

模型展示が全くない訳ではありません。「菱垣廻船 展示」で検索したところ、最初に「浪華丸」というのがヒットします。「日本海事史学会」のHPによると、

大阪市が市制100周年の記念事業として復元建造し、大阪市立の海事博物館「なにわの海の時空館」(2000年7月開業)のメイン展示物とした菱垣廻船(ひがきかいせん)。

とあります。

全長が98.6尺(29.876m)、幅7.4m、帆柱の高さ90.8尺(27.5m)という堂々たるもので、日立造船堺工場で建造されて、「1999年7月29日~8月1日、大阪湾で帆走実験が行われた。」という記事もあり、実物大の復元船が海に浮かぶところはさぞかし絵になったことだろうと思います。

が、「なにわの海の時空館」は毎年の赤字計上で2013年に閉館、現在も買い手がつかず「大阪最後の負の遺産」と呼ばれる黒歴史となってしまっています。浪華丸は現在もこの博物館内に残されているものの、公開はされていません。大阪万博関連で再公開のイベントなどがあればいいのですが・・(黒歴史だけにゲンが悪いかな・・)

もうひとつ、東京は両国にある「江戸東京博物館」の常設展。過去2回行ったことあるのですが、記憶にない・・。こちらは現在大規模改修中につき休館中です。ただHPではこの展示の360°パノラマビューが見られるようになっています。

菱垣廻船の展示の話(しかもそっちの写真無し)で終わってしまいましたが、次回は元の話に戻ります。

 

 

舟を呑む3

酒造業を成功させ、大坂に進出した鴻池新右衛門(新六)。諸説ありますが大坂城下の旧久宝寺町に店舗を開いたと伝わります。現在その跡を示すものは残っていませんが、町内に「銅座公園」が。このあたりに鋳銅や銅の取引を行う「銅座」があった名残でしょう。

大阪府中央区の銅座公園(久宝寺町2丁目

大阪進出の時期が前回ご紹介したように元和五年(1619)のこと。この元和という時代は鴻池家だけでなく「元和偃武」の言葉で知られるように、日本史上でも大きな変革が起こった時期でした。

元和元年=慶長二十年(1615)に大坂夏の陣により豊臣家が滅亡、領主同士の争いが止み、武器を偃(ふ)せて武器庫に収めたことから「偃武」と呼ばれるようになりました。(江戸時代中期に儒学者によって創られた語との説が有力)さらに大阪進出と同じ年に、堺の商人が紀伊国和歌山県)白浜富田浦から廻船(貨物船と考えるとわかりやすいでしょう)を借り、大坂から江戸へ多種多様な生活物資を運びました。また、同じ年に大坂の北浜の泉谷平右衛門が250石積の廻船を借り、同様に江戸に日用品を運んでいます。これが「菱垣廻船(ひがきかいせん)」の始まりです。

現在の堺港 灯台は明治十年(1877)完成・現存する最古の木製洋式灯台のひとつ

この項の最初に、酒を運ぶルートについて「伊丹から神崎(現在の尼崎市)までは陸路」「神崎からは川を舟で下り、大坂の伝法(でんぽう)、安治川口あじがわぐち)という河口のあたりに集積されました。ここから船で江戸まで運ばれる」と書きましたが、これは菱垣廻船や、それ以降の樽廻船のルートができてからの話で、それまでは全部陸路をたどって江戸まで運んでいたのでした。この海上ルートができたおかげで、輸送量は大幅にアップし、伊丹の酒も海上輸送されるようになったのです。

鴻池家は、酒造業に留まらず、海運業にも進出していくのですが、その話は次回で。

舟を呑む2

力士の優勝祝いなど宴会の席で「菰冠」(こもかぶり)と呼ばれる「菰(こも)」を巻いた樽を使います。この樽の蓋の部分を木槌で割って封を開け、桝などで皆で祝杯を挙げる姿は、いかにも日本の祝宴といった感じですね。

「菰」というのは稲わらで作った筵(むしろ)を言います。乞食のことを「おこもさん」「こもかぶり」などとも呼びますが、筵(むしろ)をかぶっている姿から由来しています。今では樽の装飾材のように使用されていますが、元々は酒を船で運ぶ際の「保護材」だったと考えられています。

菰を巻いた樽 左下が通常の樽(伊丹ミュージアム

陸路で馬の背に樽2つを振り分けて運んでいた時期は樽の大きさは2斗(20升=36リットル)樽が主流でした。二斗樽2つでも72Kg。馬はそれを大坂の河口まで運んでいったわけです。そのうちに伊丹を流れる猪名川をくだって酒を運べるようになると、効率化の面からも樽は大型化し、四斗樽(40升=72リットル)が主流になっていきます。

最初の頃はこうした樽のまま運ばれていたのでしょう(白鹿記念酒造博物館)

船が揺れて大きな樽同士がぶつかって壊れると、中の酒は台無し。ですからそうならないよう、今でいうプチプチ(エアーキャップシート、というのが正式名称らしいですが)のように樽を筵で巻いて保護したのが始まりだそう。

始めの頃は機能重視でただ保護だけのために巻いていましたが、それぞれの名称を表に出すだけでなく、デザインでも人目を引くように装飾化していきます。

さて、伊丹の酒が全国に流通するようになり、元和元年(1615)、鴻池新右衛門(新六)の次男、善兵衛秀成が大坂に居を移し醸造業を始めます。四年後の元和五年(1619)父の新右衛門も大阪に出て、鴻池家は大坂の街に軸足を移したのでした。この続きは次回で。

舟を呑む

本題に入る前に、先週から始まったBSプレミアムドラマ「舟を編む」の話を(この項の題名の元です)。2012年に本屋大賞を受賞し、2013年に映画化されました。今回のドラマは原作では脇役だった「岸辺みどり」(映画では黒木華さん演)を主人公に話が進んでいきます。主演は池田エライザさん。読者モデルからファッション雑誌編集者として勤めていましたが、出版不況で雑誌が廃刊(WEB化)、辞書編集部へ異動するところが18日の初回でした。

元の主人公、「馬締光也(まじめ みつや)」は映画の松田龍平さんから野田洋次郎さんへ。無口なキャラクターだったのが、やたらしゃべるキャラクターに変貌していますが、変人ぶりはしっかり受け継いでいます。このドラマの企画、10年越しのものだそうで、これからどう展開していくのか、今夜の第二話が楽しみです。

伊丹の酒が近畿地方のみならず、江戸へも運ばれて行きました

さて、鴻池(山中)家が作った酒は、

・大量の仕込み(生産)が可能

・不純物が少ない(濾過・火入れ)ので劣化しにくい

という特長がありました。それは長距離の輸送にも品質を下げずに売ることが可能、ということです。さらには戦乱の世が終わったことで野盗などの襲撃を恐れずに輸送することもできるようになりました。

さらには、徳川家康が江戸に幕府を開いたことで江戸という一大消費地が関東に生まれました。これにより、伊丹の酒は江戸にまで運ばれるようになりました。

そのルートは、伊丹から神崎(現在の尼崎市)までは陸路を進みます。馬借(運搬業者)によって大阪に運ばれるのですが、運ぶ側のモラルが低かった時代、「途中で中野酒を抜くな」というピンハネを禁じた取り決めなどもあったようです。

神崎からは川を舟で下り、大坂の伝法(でんぽう)、安治川口あじがわぐち)という河口のあたりに集積されました。

ここから船で江戸まで運ばれるのですが、次回は運搬のための樽の話を。