おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

大事の前の城址3

知名度のわりに、どういう人生を送ったのかがよくわからない、という人物の代表的な一人が、太田道灌といえるでしょう。ちょっと長くなりそうですが、ここでは南北朝時代から室町時代に至る関東のカオスな状況を述べる必要がありそうです。

ここから、文字ばかりになりますがご容赦ください(._.)

室町幕府の大ざっぱな流れは次の通りです。(ややこしくなるので元号は省略)

1336年 足利尊氏湊川の戦で楠木正成新田義貞を破る。後醍醐天皇、吉野に脱出し南北朝時代が始まる

1338年 北畠顕家新田義貞が戦死。足利尊氏征夷大将軍となる。

1350年 足利尊氏(執事:高師直)と、尊氏の弟、直義が幕府内で派閥争い激化。(観応の擾乱

1352年 直義死亡

1392年 南北朝合一

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足利学校(栃木県)上杉憲実が再興したといわれています

この間、鎌倉にいた足利義詮(後の二代将軍)が京都に上る際、代わりに鎌倉に移ったのが尊氏の四男、基氏でした。鎌倉で政務を執り、関東十ケ国を統治し、「鎌倉公方」と呼ばれます。鎌倉公方を補佐したのが「関東管領」の上杉氏です。

鎌倉公方は基氏の子孫が世襲しますが、次第に京都の幕府から自立しようとして対立が深まっていきます。一方、補佐する上杉氏はどちらかというと京都の幕府寄りの立場。これは、上杉氏の領地のあった越後は関東十ケ国の支配下ではなく、室町幕府の指揮下にあったことが影響していたようです。

室町幕府≒上杉氏⇔鎌倉公方 という図式がまず存在します。関東での主な争いはこんな感じ(☆は勝った側 ★は負けた側 △は決着つかず)

1416年 上杉禅秀★の乱(全関東管領鎌倉公方足利持氏☆に対して反乱)

1438年 永享の乱鎌倉公方足利持氏★⇔関東管領の上杉憲実☆(室町幕府が助勢)

1454-1483年 享徳の乱(発端:足利成氏上杉憲忠を暗殺)・・関東大分裂△

1476-1480年 長尾景春★の乱(山内上杉氏の有力家臣が山内上杉氏に対して起こした反乱⇔山内・扇谷の両上杉氏☆(太田道灌が活躍)

 

書くだけでも疲れますが、実際にはもっとグダグダな流れです。やっと太田道灌がでてきました。この時代、実質的な上杉氏の本流は山内上杉氏(山内顕定)でしたが、この反乱で分家の扇谷上杉氏(扇谷定正)、特にその家宰の道灌が力をもたげてきます。

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西日暮里にある「道灌山」の案内板

赤羽八幡神社を紹介する前に今日は力尽きました。まだ続きます。