実相院から10分弱北に、今回ご紹介する勝光院があるのですが、参道の手前100Mくらいのところに「禅曹洞宗 勝光院」の石碑があり、往時はここまでが寺域だったんでしょうか。
進んでいくと、雰囲気のある参道の奥、門の周辺には庭木や竹林が見えます。落ち着いて荘厳さも感じられる雰囲気です。それもそのはず、旧吉良氏の領地内の寺院で、最も格式の高い寺院がこの勝光院でした。
住宅地の中によく整備された竹林が美しく、「宮ノ坂勝光院と竹林」として「せたがや百景」に選定されています。
山門の向こうに石段、その奥正面に本堂が建ち、その右には書院、左に客殿が配されています。
本堂はもとは茅葺きだったのですが、60余年前に瓦葺に改修され、現在に至っています。境内もきれいに整備されていました。
「吉良星の如く」の項で、武州吉良氏が徳川家康に仕えるようになった際、蒔田氏に改称したことに触れましたが、徳川家とすれば、吉良の姓を名乗れるのは、本家筋の三河吉良家のみという意向があったと思われます。そのため、武州吉良氏は100年近く「吉良」を名乗ることを許されず「蒔田」を名乗り続けました。再び「吉良」を名乗ることを許されたのが、1710年(宝永七年)のこと。その7年前、1703年(元禄十五年)に起きた日本史上の事件によるものです。 その事件とは・・
「忠臣蔵」で知られる「赤穂浪士討ち入り」です。ご存じの通り、吉良上野介義央(よしひさ)が、大石内蔵助率いる四十七士に討ち取られたわけです。(この辺りはまた後日に泉岳寺などを紹介する機会に)
この事件の後、義央の跡を継いでいた義周(よしちか/よしかね、とも)は信濃高島藩にお預け(禁錮刑と考えるとわかりやすい)となり、その後亡くなったことから、三河吉良家が断絶してしまいます。それにより、復姓が許される流れとなったのです。
刃傷の相手方、浅野家の再興もこの年に認められました、不思議な因縁ですね。
長々と吉良氏(武州)と世田谷の周辺について述べましたが、今回で終わりです。お付き合いいただきまして、ありがとうございました。