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住みたい街アンケート一位に君臨する吉祥寺ですが、吉祥寺駅の周辺に「吉祥寺」はありません。江戸時代初期に発生した「明暦の大火」以前、「吉祥寺」は現在の水道橋駅付近にありました。「明暦の大火」で当時の江戸の市街地は約6割が焼け、その際の死者数は3万人とも10万人とも呼ばれています。
火事後の防災・都市計画で「吉祥寺」門前の住民に対し、現在の武蔵野市東部に替地をを用意し、住人達を移住させ、その地を開墾させることにしました。
年貢や建築費用を優遇したため、かなりの住民が移住することになりましたが、その住人たちにより、移住先が「吉祥寺村」と名付けられました。
大元の「吉祥寺」は太田道灌の時代からある古刹で、当時は江戸城(当然、道灌築城の江戸城ですが)の西の丸あたりにありましたが、家康が江戸に入った後、水道橋駅付近に移り、更に明暦の大火の後、駒込の地に移り、現在に至ります。常時千人以上の学僧が居て、仏教と漢学を学ぶ学問の地として栄えました。
吉祥寺内には、二宮尊徳、榎本武揚ほか、個人的に日本史上最も嫌いな鳥居耀蔵の墓などもありますが、ここでは境内の石碑を取り上げます。
八百屋お七、この駒込の地で恋焦がれた挙句、放火で街を焦がそうとした町娘のお話を続けます。