おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)6

改めて大坂に戻ったのが同じ年(安政3年)の11月ごろのこと。親の借金は払い終えたものの、学費を払うような余裕もない状態でした。

洪庵を親と同じように思っていた諭吉は、中津で起こったことをすべて話します。前回書きませんでしたが、中津藩家老のもっていたオランダの築城について書かれた原書を一か月借りて、全部書き写した後に返し、模写本を大坂までもってきたことも。

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適塾二階の大部屋 塾生がここで寝泊りしたといいます

「それはちょっとの間にけしからぬ悪いことをいたような、またよいことをしたようだ」「学費のないことが分かったが、おまえひとりひいきにはできない。その原書はおまえに和訳をいらいすることにしよう」を笑って言います。つまり、翻訳を依頼する名目で、適塾に寄宿することを許したのでした。

適塾での生活のエピソードが、福翁自伝にもいくつも紹介されています。夏場はみな裸で過ごし、夕方物干しで涼んでいた下女たちの真ん中に他の塾生がまっぱだかで入っていき、下女を追い出した後に自分たちが涼みながら酒を飲んだとか。あるいは夕方酒を飲んで二階で寝ていると、下から「福沢さん」と呼ばれたので、下女に呼ばれたと思い、まっぱだかで階段を下りたら、呼んでいたのは下女ではなく、洪庵の奥さん(緒方八重)だったので身の置き所がなかった、とか。

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一階と二階をつなぐ階段 傾斜が急!

そういう風に書くと、勉学の方はそっちのけのように見えますが、「学問勉強ということになっては、当時、世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われる」と。

月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、そこでの結果により塾生の等級が決まるため、蘭語辞典が置かれていた「ヅーフ部屋」には時を空けずに塾生が押しかけ、夜中に灯が消えたことがなかったといいます。

福翁自伝」の中にも手塚良仙と思われる人物のエピソードが紹介されていますが、これについては次回に。