おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)9

前回のエピソードは「陽だまりの樹」の中でも、しっかりと取り入れられていて、うまく本筋に絡めた形で紹介されます。また、「あとがきにかえて」の中では、「無類の女好き、という点では、恐縮だが私の父にそっくりだし、おっちょこちょいでだまされやすい、ということでは私の性格そのままである。読むほどに、やっぱり手塚家の血は、争えないものだと妙に感心した。」と感想を述べています。

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適塾2階の大部屋 別の角度から 真ん中の柱に刀傷があります

福沢は、安政5年(1858)に中津藩から江戸に召し出されます。江戸中津藩邸内に開かれていた蘭学塾の講師として招かれました。この蘭学塾が、後の慶應義塾の基礎となり、この年が慶應義塾創立の年とされています。

翌年、横浜に出かけた福沢は、店の看板も読めなければ、外国人とも全く会話ができないことに衝撃を受けます。これまで一心に学んできたオランダ語が通じないのです。

そこから英語を学び始める行動力が福沢らしいところですが、その行動力で彼の人生の転機となる、咸臨丸による渡米(安政7年1月出発~同年5月帰国)、元号は万延に改暦と、その後の幕臣としての採用、さらには渡欧(文久元年12月出発~翌年12月帰国)をも果たしていくのです。

渡欧からの帰国の翌年、文久3年(1863)は攘夷の嵐が吹き荒れた年でした。5月には長州藩が下関で外国船を砲撃。また、前年8月の生麦事件を発端とする薩英戦争が7月に起こりました。攘夷論者の矛先が洋学者に向かい、福沢の周りでも物騒な話があったと紹介されています。その年の6月11日、緒方洪庵が急死します。