杉田玄白は、後に源内が獄死した時に、友人として葬儀を執り行っただけでなく、彼の死を悼んで、一周忌に追悼の碑文を書いたことでも知られています。
当時、オランダ人は毎春、長崎から江戸へ参府する際、薬種問屋の長崎屋を定宿としていました。長崎屋には、新し物好きで、西洋の事物に興味を持った人たちが面会のために参集するようになります。その中に平賀源内や杉田玄白もいたわけです。といっても、彼らはオランダ語が話せた訳ではありません。オランダ人に随行してきた長崎の通詞(通訳)を介して会話を交わすだけでした。
玄白の遺した「蘭学事始」では、源内のことを次のように紹介しています。
当時、平賀源内という浪人者がおり、本職は本草家で、生まれつき頭がよくて人気を集めていた。ある時、カランスというカピタン(オランダ商館長)が戯れに一つの金袋を出し、この袋の口を開くことができた人に袋を差し上げよう、と言いました。口は知恵の輪になっていて、そこにいた皆が口を開こうと工夫しましたが、誰も開くことができません。末席に居た源内に袋が回ってきました。手に取って少し考えたそぶりを見せたかと思うとたちまち袋の口を開きます。カランスはその際に感心し、金袋を源内に与え、それ以来二人は親密になり、源内は長崎屋に足を運んでは物産のことなどを質問したということです。
日本では通詞以外にオランダ語を話せる人間はおらず、ましてや蘭和辞書もない時代、日本人にとって洋書の内容を和訳することなど考えられないことでした。
蘭学の話、続きます。