平賀源内は、各地の鉱山事業や、製鉄に必要となる木炭製造の事業を手掛けますが、相次いで失敗、陶器など工芸品の製造も中途半端に終わるなど、起業家としては成功することはありませんでした。現在であれば、アイデァに対して投資する資本家が名乗り出たかも知れませんが、江戸時代に資本主義はありません。
発想は良くても、それを事業として成功させるには、浪人の身の源内にとって時代の壁があったのでしょう。安永六年(1777)に風来山人の名で出された「放屁論」後編には、本人がモデルの貧家銭内(ひんかぜにない)という人物の口を通じて,停滞した身分制社会を批評しています。
翌年の安永七年(1778)には、同じ長屋に暮らし、かつてエレキテルの制作を手伝った、弥七という職人がエレキテルの偽物を作って売る事件が起こります。
外形はいかにも本物なのですが、原理のわからないまま作られたせいで、電気は起こせないインチキな代物でした。源内はよほど腹に据えかねたか、奉行所に訴え出ます。
この訴えは、判決が下る前に、被告の弥助は伝馬町の牢内で獄死してしまい、日本初の著作権裁判?は結審せずに終了してしまいました。
安永八年(1779)、源内はこれまで住んでいた神田大和町から神田橋本町に引越します。引越先は幽霊が出ると噂の家でしたが、そういうものは信じなかったのか、源内は気にせずその家屋で生活を続けます。
その家に移り住んで約半年経った11月、源内は奉行所に自ら出頭し、「酒の上の過ちから人を切り殺した」と申し立てます。エレキテルで知られた有名人源内の起こしたスキャンダルは、江戸中の話題になりした。
刃傷事件のその理由は次回で。