その時の福沢の受けた感銘は、明治二十三年「蘭学事始」の再版(最初に明治二年に桜の木版で出版)の際の序文に表されています。その中の一部を原文のまま紹介します。
中略
東洋の一国たる大日本の百数十年前、学者社会には既に西洋文明の
福沢は前野良沢と同郷、中津藩の出身です。良沢が「解体新書」翻訳に関わっていたことは、新書の序文や中津藩に伝わる話などから知っていたでしょう。しかし、単語の意味すら手探りで、医学書を翻訳するという途方もない事業に、良沢が中心的なかかわりをもっていたこと、これら先人の努力なしに日本の医学ならびに蘭学・洋学の発展はあり得なかったことを「蘭学事始」の文章は生き生きと後進に示していました。
「蘭学こと(ば)始め4」の中で、築地鉄砲洲にある「蘭学の泉はここに」の碑を紹介しました。実は同じ場所に、もう一つ碑が立っています。
もう一つの碑「慶応義塾発祥の地」には、慶應義塾の期限が、この場所中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来すること、また、前野良沢らがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒ある場所であることが記されています。
以上、江戸時代後期の蘭学の歴史を長々と綴ってきました。最後までお付き合いいただきありがとうございました。