おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

冗談は、寄席2

文化・文政期は、初代三笑亭可楽と彼が育てた(あるいは彼の周りの)噺家たちが活躍した時代です。可楽門下には「可楽十哲」と呼ばれた弟子たちがいたそうです。孔子の門弟「孔門十哲」や松尾芭蕉の「蕉門十哲」になぞらえたものですが、

その十人の中には、人情噺の祖といわれる初代朝寝房夢羅久(あさねぼう むらく)や、三味線などの鳴り物を取り入れて演じる音曲噺の祖、船遊亭扇橋(せんゆうてい せんきょう)、怪談噺の祖、初代林屋正蔵(はやしや しょうぞう)等がいます。

実際に人名を羅列すると十人以上になりますが、それだけ落語を生業とする「噺家」が増えると、活躍の場所である寄席の数も増えることになります。

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現代の東京の落語定席のひとつ、上野鈴本演芸場

江戸市中の寄席の数は、文化十二年(1815)には七十五軒を数え、文政中期の頃には一二五軒にもなり、江戸庶民の娯楽として落語などの芸能が浸透していきました。

松平定信寛政の改革で倹約を押し付けられた庶民が、定信失脚後の「化政文化」の時期謳歌した、と言えますが、これを取り締まる動きが起きます。十一代将軍家斉の死後、天保十二年(1841)からの、老中水野忠邦による「天保の改革」です。

忠邦が発した倹約令は寛政の改革以上に厳しく、寄席に対する規制も行われ、改革前に二百近くまで増えた寄席は、規制の厳しさに大半が廃業してしまいます。歌舞伎役者の七代目市川團十郎が江戸十里四方所払いの処分を受けるなど、歌舞伎も存続が危ぶまれるまでになりました。

この庶民の楽しみを奪おうとする幕府の施策に、極端な法令の実施には反対する人物が幕府側に現れます。その人物については次回に。