梅の話をご紹介するのに、このニ、三月はずいぶんと天神さまにお
まずは「平河天満宮」。ここは太田道灌が川越(ここも道灌の城がありました)にあった三芳野(みよ
江戸城にも「平川門」「天神濠」にその名残がありますが、一方
今ではビルの間に埋もれるような凝縮された境内ですが、天保年間(1834/1836年)発行の『江戸名所図会』には今より大規模で賑わった様子が描かれています。社殿の他に、太子堂や薬師堂といった神仏習合のお堂があったのに加え、境内に「楊弓」(ようきゅう)「茶屋」などの娯楽場も設けられていたようです。
ここからは直接平河天満宮とかかわりのない話ですが、柳で作った小さな弓で的に当てる遊戯を「楊弓」といい、その遊技場を「楊弓場」とか「矢場(やば)」と呼びます。
本来は射的場のようなものと考えればよいでしょうか。時代が下がると、その場所で矢を拾ったり客の応対をしたりする女性は「矢場女(やばおんな)」が娼婦の役割を果たすようになります。また、遊戯の景品も高価となって射幸心をあおるものとなり、天保時代にはいわゆる「悪所」として取締の対象にもなりました。(「ヤバい」の語源は「矢場のような悪所に居合わせると、役人などの目を付けられるから」、という説もあります)善悪はともかく、この辺りが盛り場であったことは間違いのないところです。
最初に目に入
この鳥居は千代田区内では最古のものだそうで、麹町周辺の人々によって建設・奉納されたと考えられています。
平河天満宮の話、続きます。