おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

浅間浅間よ朝陽が登る5

都内の供養碑をご紹介する前に、「天明泥流」がどれほどのスピードで流れていったのか、天明泥流の目撃談は非常に多く残されていて、泥流発生後どのくらいの時間でどこまで到達したか、という研究もなされています。

それによると、前回話に出てきた群馬県長野原にある琴橋(浅間山頂からの距離約23KM)には、15分で流れが襲ってきた、とのこと。山沿いの傾斜が急な地域だけに相当な速度(時速で考えると90KM以上)です。人々は逃げる間もなく泥流に飲み込まれてしまったのではないでしょうか。

同じく長野原の猿橋付近(約31KM)に22分で到達した後、積もった土砂が自然のダムを形成し、しばらく泥流がせき止められますが、そのうちに水圧に耐えられなくなり、数回に分かれて決壊したようです。

これにより泥流の到達スピードは大きく鈍っていて、利根川との合流点である渋川(約68KM)へは109分後であったとの研究です。その先も堆積しては決壊、を繰り返して泥流は流れていきました。

利根川が江戸川と分流するのが、埼玉県の幸手(160KM地点)です。

幸手の権現堂堤から川方面を臨む

7月8日の夜から9日昼12時頃のほぼ半日以上、壊れた家・蔵・道具や柱・戸などが川幅いっぱいに流れ押し寄せてきたといいます。

更に江戸川を下った、葛飾区金町(200KM地点)の当時の名主の話として、「7月9日14時頃から江戸川の水が泥で濁り、根を付けたままの折れた樹木や、粉々になった家財道具・材木などが一面に流れてきた。中に損壊した人(遺体)や、牛馬の死骸も混じっていた。夜8時を過ぎたあたりからそうした流下物は次第に減っていった」と訴え出た、という被害見聞が残されています。これは「後見草(のちみぐさ)」という書物に残っている記述なのですが、「後見草」の著者は「蘭学事始」の杉田玄白で、このとき50歳でした。

今回は流域の状況を説明するだけで終わってしまいましたが、明日は葛飾の供養塔などをご紹介していきます。