おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

末期のミス

綱吉がこの世を去ったのは、宝永六年(1709)1月10日のこと。ウィキペディアで享年64と書かれながら、満年齢の表記はありません。日本史上の人物の死亡年齢の表記で、享年と満年齢の併記されたりされなかったり、何の違いがあるのでしょう。

享年は「数え年」表記です。生まれた年(起点)の時点を「一歳」として、元日を迎えると「二歳」になります。大晦日に生まれた子供は、翌日には二歳になる、ということですね。一方、満年齢は生まれた時は「零歳」で、誕生日が来て初めて「一歳」になるのはご存知の通りです。数え年には「誕生日」という概念は無い訳ですね。

綱吉の生年月日と没年月日を表記します。漢字は旧暦、アラビア数字は新暦(西暦)です。正保三年一月八日(1646年2月23日)に生まれ、宝永六年一月十日(1709年2月9日)に亡くなりました。もうお判りかと思いますが、旧暦と新暦で満年齢が異なってしまます。福沢諭吉の誕生日は天保五年十二月十二日(1835年1月10日)なので、旧暦と新暦で生まれた年が異なり、伝記作家泣かせという話もあります。

麻布善福寺の福沢諭吉墓 

福翁自伝などで「〇歳の時に~」と書かれているのに、年齢の計算が合わなくなってしまうため、作家が混乱してしまうのだそうです。

ということで、綱吉の死亡年齢には享年しか記されていません。
話がそれてしまいましたが、死因は麻疹(はしか)でした。その死から一ヶ月も経たないうちに、正室の鷹司信子が同じ麻疹で亡くなります。

庶民の夫婦であれば、一緒にいたことから引き起こされた結果であり、夫婦の仲の良さをあらわすようなエピソードです。しかし将軍という権力者の死にまつわるからなのか、あるいは綱吉自身の生前の言動によるものなのか、この夫婦の死は臆測を呼び、ある俗説を残しています。それは、正室である信子が綱吉に手をかけ、その後自ら命を絶った、すなわち無理心中を図った、というものなのですが、その話は次回で。