おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

けちん坊将軍2

米将軍」と呼ばれた訳は、米の相場に目を光らせ、米価の安定(特に下落対策)に心を砕いたからですが、そこに至るまでに、税収を増やすための施策をいくつか打っています。

そのひとつが「上米の制」、大名から一万石につき百石の上納金(米)を差し出させ、その代わりに、これまで参勤交代で江戸に一年在住しなければいけませんでしたが、それを半年とすることを許しました。幕府は収入が増え、大名は江戸在住時の支出が減る、というものでWIN-WINのように見えますが、江戸の地域経済としては、大名やその家来の消費が減ることでマイナスとなります。幕府も収入は増えるものの、増えた分も換金のため市場に放出するので米の価格は下がります。

吉宗は米の値段を細かく気にしました(深川江戸資料館)

将軍家(徳川家)直属の家臣は、旗本・御家人ですが、彼らの収入は三千石とか五十石とかいう、いわゆる「石高制」。米価が下がることで。幕臣たちの生活は逆に苦しくなってしまいました。

加えてそれまでの「検見法」(けみほう、けんみほう、とも)という年々の収穫高を調査して年貢を決める方式から、「定免法」(じょうめんほう)という作柄の豊凶に関わらず、一定の年貢を課する、という方法に替えました。「検見法」は年貢高が安定しないうえに、毎年の検見=役人による実査、は数々の不正の温床(役人を接待して作柄を低く見積もって年貢を下げてもらう、等)にもなっており、その元を絶つとともに、安定した年貢高を見込むことができます。(定免法の導入6年後、幕府創設以来の「四公六民」から「五公五民」に税率を上げました)

更には、「新田開発の奨励」による生産量の増加を図ります。しかし、いずれも年貢米の収入は増えるものの、米の価格が下がって幕臣たちの困窮は変わりません。「米をたくさん作り年貢の量が増えれば、すべては好転する」という考え方では、貨幣経済が進んだこの時代には合わなくなっている、ということに吉宗は気づきます。

そこで米相場に介入していくことになるのですが、その話は次回に。