おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

愛象が尽きる

幕府でも年間200両以上という飼育費がネックとなり、引取りに手を上げる者はいませんでした。そのため、結果として象は浜御殿にて12年もの間飼われています。大名が望めば江戸上屋敷などに引き連れて見物することができ、また士分以上であれば浜御殿に出向いて見物することが許されていました。

真夏の浜離宮 日陰で水浴び、なども楽しんでいたでしょうか

見物にあたって料金を徴収した、というところまでは調べられませんでしたが、飼育費に頭を痛めていた幕府のこと、何らかの徴収はあったものと想像されます。

というのも、享保十七年(1732)霊薬として疱瘡(天然痘)やはしかに効くという「象洞」(ぞうほら)の販売許可を出しています。この「霊薬?」はぞうの「ふん」を原料としており、それを販売したのが中野村の源助、柏木村の弥兵衛、押立村の平右衛門という農民たちでした。それぞれの村を現在の地名で表すと、それぞれ中野、新宿、府中市にあたり、すなわち甲州街道沿いの富農が言い出し、幕府がそれに乗っかった、といえるでしょう。

販売許可を出すにあたって、江戸町奉行もそこに絡んでいるのですが、その町奉行はこのブログでも何度か話の出てきた大岡忠相でした。忠相も象の飼育にかかる出費を何とかしようと頭を痛めた結果、怪しい商売の片棒を担いだのでしょうか?

それにしても、象の「洞=法螺」のネーミングは狙ったものなのでしょうか、判断に困るところです。

当時のもっとも繁華な場所が「両国」だったのですが、幕府は両国に象を派遣して「象洞」の販売を後押ししています。

両国橋(隅田川遊覧船より)当時江戸で最も繁華な場所でした

幕府の陰日向のバックアップもあってか、「象洞」は江戸だけでなく、京都・大坂・駿府までも販売されるようになったのでした。

しかし、それで象への待遇がよくなったのかというと、残念ながらそうではありませんでした。決して象にとって快適とはいえない日本の気候と、色々と引き出されては見物の的となるストレスだけでなく、象の飼育係にも不心得者がおり、餌の質を下げ、差額を懐へ入れる者も・・。そのことが事件を引き起こします。それについては次回で。