おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

愛象が尽きる3

払い下げを受けた弥助たちとて、象のことを愛らしく思って引き取ったわけではありません。引き取った分、飼育費以上にもうけてやろう、という魂胆もあったことでしょう。(象のふんだけでなく)

さっそく見物料を取って象を見世物にしたようです。十年前には大ブームを巻き起こした象ですから、当初は多くの見物人がつめかけ、象にちなんだ商品を買い求めたのですが、次第にその熱狂は冷めていきました。

採算が取れなくなってくると(払い下げにあたって幕府からも一時金は出ていましたが)、待遇は自然と悪くなる=餌の質が落ちていく、ということになります。払い下げられて1年数か月が過ぎた寛保二年(1742)7月には、象がまたも暴れだし、つないでいた綱を引きちぎり象小屋を押し破る騒動を起こしました。この時には象を抑えるために与力2名、同心5名が派遣され、幸い死人は出ずに収まったようです。

その後象は病気となり、馬医者(獣医と考えていいでしょう)の派遣や投薬も行われましたが、看病の甲斐なく寛保二年(1742)12月13日、中野村にて病没しました。日本に連れてこられたのが享保十四年(1729)ですから、異国の地にきて13年を過ぎ、年齢は21歳だったということです。

中野の宝仙寺 象の骨と牙が納められました

遺骸は解体されて骨と皮に分けられ、皮は幕府に献上され、象の骨や牙は源助に下しおかれました。源助はこれをまた見世物として25年もの間源助に収入をもたらしたと伝わります。その後骨と牙は中野宝仙寺に納められ、天保時代に刊行された「江戸名所図会」の中でも「馴象之枯骨」として紹介されています。

戦後再建された宝仙寺本堂

太平洋戦争の空襲により宝仙寺は被害を受け全焼、境内の堂塔は戦後に再建されたものです。象の骨や牙も一部が失われたものの今も非公開の寺宝として伝わるほか、象小屋の跡説明版が中野の区立朝日が丘公園内に立っています。(この項を書く前に見に行くつもりが転勤になって写真は撮れず、です)

数奇な象の長い鼻、いや、長い話、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。