おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

自由な明日は、芦屋で光(ライト)を堪能2

1893年、ライトは7年間勤めていた設計事務所から独立、26歳の時でした。その後1910年までの17年間で200件近い建築の設計を行ないます。屋根裏や地下室などを廃して建物の高さを抑え、水平線を強調した佇まいの彼の建築様式はプレイリー・スタイルPrairie Style:草原様式 )と呼ばれるようになりました。順風満帆に見えた建築士生活ですが、この後、ライトは約25年間、不遇の時代を迎えることになります。

明日館に展示されていた ライトのパペット人形

彼は独立前、22歳の時に結婚した妻キャサリンとの間に子供が6人いたのですが、邸宅を設計した施工主の奥さん、チェニー夫人と深い仲(つまりは不倫関係)となってしまいます。あげくのはては1909年にシカゴの事務所を閉めると、妻子を捨てて駆け落ちの旅へ・・この逃避行はニューヨークからヨーロッパへと2年間にわたりました。1911年アメリカに帰国したライトですが、これまでの名声は地に落ち、仕事の依頼は激減してしまいます。

妻キャサリンは離婚に応じず、ライトは自身の邸宅兼スタジオをウィスコンシン州スプリング・グリーンに母親から与えられた土地に設計・建築します。これが世界遺産のひとつを形成する「タリアセン」です。その後、少しずつではあるものの設計の依頼も増えてきたライトを1914年8月15日新たな災難が襲います。

「タリアセン」 ライトがデザインしたスタンドにもその名があります

ライトがシカゴに出かけた留守の間に、2ヶ月前に使用人として雇い入れたジュリアン・カールトンが、「タリアセン」のダイニングルームに施錠するや、部屋にガソリンを撒き火をつけたのです。放火だけでなく、カールトンは驚いて窓から逃げ出そうとする人々に斧を振り下ろしたのでした。襲われた10人のうち、命を取り留めたのはわずか3人。惨殺された7人はチェニー夫人(ママ-・ボースウィック)と彼女の前夫との間の子供2人とライトの門弟5人でした。この事件は「タリアセン放火事件」と呼ばれているのですが、あと少し事件の話が続きます。