おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

「大河への道」を観てきました

「大河への道」鑑賞してきました。実際に観たのは封切り翌日の5月21日なので、もっと早く採りあげてもよかったのですが、浅間山噴火と花菖蒲、どちらも佐原が絡んでいたこともあり、そちらの話を先に進めました。

現代パートが冒頭とラスト部分で、江戸時代パートが中盤を占める形式で、話としてはTV時代劇でもよいのかも知れません、が、江戸時代パートのラスト近くのシーンは映画でないと味わえないと思いました。

ストーリーは話せませんが、伊能図(大図214枚)の全容を俯瞰する映像は、スクリーンでこそ。スケールの大きさに圧倒され、まさに「鳥肌の立つ」シーンでした。

また、

映画のパンフレットも、伊能図と衛星写真から作成した図を重ねて比較できるように作られていたり、地図の作成方法や伊能忠敬の測量日記の紹介などの描かれ、結構な情報量でした。

大河への道 パンフレットより 

予告編などに出てきた、「伊能忠敬が日本地図を完成させていない」のは、特に新事実でもない話です。地元香取市市役所勤務で、伊能忠敬ファンの主人公が知らないわけがない、というのはストーリーの都合上仕方のないところでしょうか。しかし、忠敬の死を幕府に秘して地図作成を続けた、というのは、そういうこともあり得たのかも、と思わされます。

伊能忠敬、死体の姿で横たわっているだけで本当に全く出てこない!こんなドラマの作り方もあるんだな、と感心させられます。全体としてよくできたストーリーで(創作落語が原作なのですからそのあたりは当たり前なのかもしれませんが)違和感なく楽しめる映画でした。

一方で現在の佐原(香取市)の街並み部分はもっと映像として紹介して欲しかったと、そこは残念に感じました。佐原の街並みは南関東で最も情緒ある美しいと個人的に思っていますので、ここはもうちょっと頑張って欲しかったかな。

佐原の街は実に美しいです

幸か不幸か、観客がぎっしり、という映画ではないので、ふらっと気軽に楽しめるのではないかと思います。ご興味のある方は是非ご一見を。そして佐原も訪れてみてください。

 

(菖蒲の)時は今、雨がしたしる水無月かな5

「水郷佐原あやめパーク」は「潮来あやめ園」からは約3.5KM、車だと10分程度で移動できる距離です。さっきGoogleで調べたら、本日行かれた方が、「満開にはまだまだ、といったところ」と書かれていました。ちなみに今日の小岩菖蒲園もつぼみはたくさん出ているものの、花開いているのはわずかでした。どちらもこれからが見ごろになりそうです。

20220605 小岩菖蒲園 つぼみと開きかけの花がちらほら

一方、堀切菖蒲園、じょうぶ沼公園は見頃を迎えています。たいして距離も違わないのに。この差は何からきているのでしょうか?水温・水質管理などかな?

20220605 堀切菖蒲園 「宇宙」「霓裳羽衣」などの菖翁花も見ごろです

20220605 北綾瀬のしょうぶ沼公園 駅近くで行きやすい!

すっかり佐原の話から外れてしまいましたが、潮来も佐原も見頃はまだ先のようで、まだまだ間に合う、と申し上げたかった訳です。

「水郷佐原あやめパーク」には400品種150万本の花菖蒲が咲き誇ります。広さは8ha、「潮来あやめ園」1.3haで500品種100万本なので、この二か所を巡ると200万本以上の花菖蒲づくしの一日が味わえます。菖蒲に関する説明に関しては、堀切菖蒲園内の案内板などが充実しているので、堀切で基礎知識を頭に入れた後、潮来・佐原に行くことをお薦めします。(いきなり100万本以上の花菖蒲に出くわすと、菖蒲に酔ってしまうかもしれません)

佐原あやめパーク 昨年6月5日撮影

潮来でも「ろ漕ぎ舟遊覧」が出来ることをご紹介しましたが、あやめ園内に水路はありません。一方、佐原はパーク内に水路(島や橋も)が造られているため、園内を船で周遊することもできます。(私は乗りませんでしたが・・)

舟から眺める菖蒲もきっと格別でしょう! 昨年6月5日撮影

また、昨年訪れた際には、園内での結婚式にも遭遇しました。

嫁入り船と菖蒲

舟に俵3つが載っていますが、実際の嫁入りは俵の他に、嫁入り道具を入れた長持と角樽を載せるようです。潮来でも同じようにイベントがあるので、休日に行くと、どちらかで遭遇できるのではないでしょうか。(よくよく考えると、これもジューン・ブライドなんですね)

潮来・佐原と、広々とした場所で群生する花菖蒲は、都内で見るのとは違った風情で、見比べていただければ、と思います。今年の花菖蒲についての話はここまで。最後までお読みいただきありがとうございました。

tadakaka-munoh.hatenablog.com

(菖蒲の)時は今、雨がしたしる水無月かな4

昭和二十五年(1950)、潮来公民館の主筆を務めていた本田潤哉さんという方が有志に呼びかけ寄付を募ります。集めた13,000円(当時 現在では20~50倍の価値にあたるでしょうか)で、明治神宮にある菖蒲園から花株137株を購入しました。とはいえ、すぐにあやめ園を造成することはかなわず、当時は切花のあやめをビール瓶などに活けて飾るくらいしかできません。花菖蒲は「株分け」という方法で株を増やします。

株分けで増える花菖蒲(みさと公園菖蒲田)

地道にあやめ(花菖蒲)の数を増やし、昭和三十一年(1956)に潮来町初代町長の藤岡鉱次郎さんを中心に鹿島参宮鉄道(現関東鉄道)と地元の旅館経営者たちが尽力し、現在の「水郷潮来あやめ園」の前身「前川あやめ園」が開園しました。翌年には国定公園の指定も受けています。ちなみに「前川」は人の名前ではなく、あやめ園のすぐ横を流れる川の名前です。

国定公園の看板と潮来の伊太郎像 昨年6月5日撮影

1.3haの園内に咲き誇る花菖蒲はなんと約500種100万株。小岩菖蒲園の花菖蒲が約5万本といいますから、その桁違いの規模がわかります。

咲き誇るあやめ(花菖蒲)昨年6月5日撮影

これだけの規模でありながら、入園は終日自由、無料です。(駐車場代はかかりますが)今年のあやめ祭りは6月19日まで開催され、期間中は「ろ漕ぎ舟遊覧」「嫁入り舟」や、「ライトアップ」などのイベントが行われます。

これらの橋もライトアップされます 昨年6月5日撮影

夜の情景はHPなどで紹介されているのですが、まさに「幻想的」という言葉でしか言い表せません。(帰った後で知り、夜まで滞在しなかったことを後悔しました)

是非、この時期に潮来を訪れ、潮来と水郷の魅力にはまってみてください。

次回は千葉県側の水郷、「水郷佐原あやめパーク」をご紹介します。

(菖蒲の)時は今、雨がしたしる水無月かな3

水戸黄門として知られる徳川光圀は、水戸徳川家の第二代藩主です ドラマのように日本全国を漫遊したという史実はありませんが、領内各所を巡っており、それにちなんだ話が多く残されています。
当時この地は「板来」と呼ばれていたのを、光圀が「これからは潮来と改める」よう命じたことから「潮来」となりました。
光圀がなぜそんなことを命じたのか、領内で聞きかじった話が関わっていました。
鹿島にある潮宮(いたのみや、いたみや、とも)神社を訪れた際、珍しい読み方に興味をもち、なぜ潮を「いた」と呼ぶのか、と土地の者に問いました。

潮宮(いたみや)は鹿島神宮末社だそうですが、残念ながら手元には写真がありません

土地の者が答えるには、
「この地方では潮(流)のことを「いた」と呼んでおるのは、凪いだ時の潮の状態が板のように平面に見えることからです。更には水の流れが木目のように見えることから、古くから潮を“板”に例えて呼んでおります。」
光圀はその答えがたいそう気に入ったとのことです。同じ領内である「板来」でそのことを思い出したのか、前述の潮来改名につながったようです。

すっかり地名の解説が長引いてしまいましたが、水郷の町である潮来は、昔からアヤメ(花菖蒲)で知られており、大正末期に観光用のアヤメ園が造られましたが、太平洋戦争の際に、食料調達のため水田に替えられてしまいました。堀切菖蒲園の周辺にあった他の菖蒲園も水田になった、といいますから、花よりコメ、という戦時中の国策に従ったといえます。

潮来のあやめ園

いったんアヤメが見られなくなった潮来の地に、再びアヤメの花が咲いたのが昭和二十五年(1950)のことでした。その話は次回に。

(菖蒲の)時は今、雨がしたしる水無月かな2

漠然と千葉県と茨城県の境界は利根川、という認識が強かったのですが、河口の銚子の当りはその通りでも、地図で川をさかのぼって見ると、佐原あやめパークは利根川より北にありますが千葉県は香取市内にあります。
では県境はどこか、と見るともう一本北に支流の常陸利根川が流れていて、その川が両県の境になっていました。

潮来にかかる橋 水運の要所でした(水郷巡りの舟も見えます)
利根川というと今では銚子の北に河口があり、太平洋に流れ込んでいますが、これは江戸時代初期に「利根川東遷事業」という大規模な河川の付替え工事(約60年かけて行われました)によるもので、それまでは、現在の江戸川(流域は若干異なります)が利根川の本流として江戸湾に注いでいました。文字通り「東遷」、東側に川の流れを移動させたわけです。
この「利根川東遷事業」が行われたのには、治水というよりは利水、水運整備の必要があったからです。
徳川氏の入府後、政治都市となり人口増加を続ける江戸において、その消費需要を賄うため、物流を確保することが必要であり、水運路の整備は不可欠でした。この工事により、東北地方を中心とする各地から太平洋側に物を集め、更に利根川をさかのぼり江戸に至る舟運で江戸に運ぶルートができました。潮来も佐原もその中の物流拠点として発展した街です。

周遊観光用の舟が多く繋がれています 写真の左側が潮来あやめ園
まずは北の「潮来」からご紹介していきます。潮が来る、と書いて「いたこ」、難読地名ですね。
常陸国風土記によれば、古くは「伊多久(いたく、板久とも)」と呼ばれていた記録があります これは崇神天皇の時代(3世紀後半から4世紀前半と思われます)、後の大和朝廷による東国平定で、先住民を討伐した際に、いたく痛がりながら死んでいった、という故事からこの地名がついたとされています。ちなみに恐山などで知られる「イタコ」とは言語上の関係は無いようです。
と、伝説上の由来はそうなっていますが、痛んだ様子の崖の地形から「痛く」の名前があるのではないかとか、「大きな砂粒」を意味する「いたこ」が由来との説もあります
「いたこ」に「潮来」の文字が充てられたのは江戸時代、水戸光圀公が関わっています。この話については次回に。

(菖蒲の)時は今、雨がしたしる水無月かな

ようこそのお運び、厚く御礼申し上げます。

浅間山の噴火の話、思ったより長くなり、気づいたら春のバラの時期がほぼ終わってしまいました。京成バラ園などで色々写真は撮ってあったのですが、ご紹介はまた別の機会にしたいと思います。

ちょうど一年前、このブログではほぼ半月花菖蒲を取りあげましたが、その時ご紹介しなかった潮来あやめ園と佐原のあやめパークをとりあげます。(それらについての写真は昨年のものです)

tadakaka-munoh.hatenablog.comその前に、昨日(5月28に)堀切菖蒲園とすぐそばの堀切水辺公園、小岩菖蒲園に行ってきましたが、いずれも咲き始めで、見頃は一二週間後になりそうです。

咲いている菖蒲の横や奥に、多くのつぼみが見られます(堀切菖蒲園

是非この機会に都内の花菖蒲をご覧いただきたいと思います。そこで花菖蒲の魅力を知ってから、今度は水郷のあやめを楽しんでいただければ、と思います。

「水郷のあやめ」と書きましたが、このあやめ、実際は花菖蒲のことです。

花菖蒲とあやめ、カキツバタの違い

これについては、堀切菖蒲園内の案内板にわかりやすく解説されていました。あやめは乾いた土壌に育つので、潮来のような水辺にはあやめは育たないのですが、この三つは昔からよく混同されていて、まさに「いずれがあやめかカキツバタ」。昔からそういい現わされてきたので、今さら「花菖蒲園」「花菖蒲パーク」でもないでしょう。

潮来と佐原、茨城県と千葉県に分かれてはいますが、県境は利根川(正確には常陸利根川)。川を隔てて北側が潮来、南が佐原で、距離も4KM足らずですから、いっぺんに二か所で花菖蒲を楽しむことが可能です。広さ(小岩菖蒲園は十分広いですが)と花菖蒲をとりまく周りの雰囲気が都内とはずいぶん異なるので、次回はそうしたところもご紹介できればと思います。

混ぜるな飢饉!負けるな飢饉!5

天明七年(1887)、江戸の庶民も米価の高騰に苦しみ、奉行所にお救い願いを行いますが、奉行所はこれを拒否、庶民の困窮を救済する策を打ち出しません。公儀に対する不信が高まり、ついに5月、赤坂や深川で大規模な打ちこわしが発生しました。

翌日には江戸の中心部から周辺全域に広がっていきます。

「打ちこわし」というと米屋を襲って、蔵の米や財物を奪っていくようなイメージですが、この時のものはそうではありませんでした。標的の商家の門を大八車で突破し、門塀、壁、障子、畳、床など家屋を破壊します。ここまでは「打ちこわし」そのものですが、商家の米や麦、大豆などを路上にぶちまけたり、川に投げ入れたりしていますが、盗賊行為はほぼ発生していません。

この騒動を見ていた水戸藩士が、この打ちこわしを評して「まことに丁寧、礼儀正しく狼藉」と記録に残しています。自分たちは盗人・盗賊などではなく、米の価格高騰の中で暴利をむさぼる商人に制裁を加え、世直しを要求する集団だ、という矜持があったのかも知れません。

とはいっても江戸の噂が佐原に聞こえてきたとき、「佐原でも一揆・打ちこわしが起きるのではないか」と心配する商人たちの中かわは、皆で金を出しあって地頭所の役人に来てもらい、打ちこわしを防いでもらってはどうかという意見が出されました。

関東三大祭りの一つ、佐原の大祭

しかし忠敬は、「役人は役に立たない、一揆に驚いて逃げてしまうだろう」と反対します。村方後見の自分たちに、佐原の行政を負わせるような領主の姿を普段から見ていたからでしょう。忠敬らは、それよりも農民たちに米や銭を与えて、農民たちで町を守ってもらおう、と提唱し、結局この意見が採り入れられ、役人の力を借りることなく佐原の町を守ることが出来ました。

町の自治の伝統が祭にも表れているのでしょうか

現在の佐原でも、住民の方々が工夫をされての町並保存のため努力をされているのを見ると、この精神は今にも残っているような気がします。

天明の噴火と飢饉、打ちこわしなど長々と述べましたが、この稿は以上です。

最後までお読みいただきありがとうございました。