おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

新田花実が咲くものだ3

話を前々回に戻します。安治川が開削されたことと、少し上流の中之島近辺でも島の北側の堂島川を掘り下げることによって、南側の土佐堀川との分流を促したことにより、下流河口付近の流れは大きく改善されました。また安治川は大坂の水運を担う重要な水路にもなりました。河村瑞賢の狙いの中心は案外こちらにあったのかも知れません。

安治川河口部分(天保山公園より)

貞享二年(1685)に淀川の治水工事は完了しました。瑞賢は続いて翌三年から大和川の治水工事にとりかかっています。以前ご紹介したように、東河内の農民が要望した「川の付替え」についてはすでに「不要」として却下されています。瑞賢は淀川と大和川の合流地点(天満橋付近)の流路拡張や河川敷の葦の刈取りなどを行って、大和川側の流れの改善をはかりました。工事は翌年に完了しましたが、その後も大和川流域では洪水が止むことはなく、その年からまた付替えの嘆願書が出されています。

瑞賢は元禄十一年(1698)から第二期の大和川治水工事を開始し、堀江川開削などの対策を行っていましたが、どちらかというと今の大阪市中の対策が中心で、河内国の農民への対策としては不十分だったのでしょう。

こうした中、幕府でも大阪代官兼堤奉行となった万年長十郎(まんねん ちょうじゅうろう)が中心となって、大和川付替えの再検討が始まっていました。付替え反対・不要論の河村瑞賢が元禄十二年(1699)この世を去ったことも付替派を後押ししたようで、長十郎はついに元禄十六年(1703)に付替えを行うことを決定します。

やっと大和川の付替えまで話が進みました。付替え工事と新田開発の話に進みます。

 

新田花実が咲くものだ~番外編:安治川隧道

前回安治川の写真を載せました。手前に大きく映っていたのが阪神なんば線の鉄橋、奥がJR大阪環状線の鉄橋です。この2つの鉄橋は300m強離れています。地図で示すとしたの地図のような位置関係になっています。

前回の写真撮影地は「南安治川通」地図の右端より50mほど東(右)の地点です

上の地図の河口寄り(左側)には国道43号線阪神高速の道路橋が架かっていますが、川面より相当上を走っています。更に上流方向は約2km上流の中之島までこの川に橋は架かっていません。

安治川の上を通る阪神高速天保山付近)

前にご紹介した通り、安治川は九条島を開削して作られましたが、その水路部分には橋が架けられておらず、南北に分断された渡し舟が往来していました。橋を架けると大型船が通行することができないためと思われます。河村瑞賢は洪水対策だけでなく、大坂の水運の観点からもこの工事を行ったのでしょう。

が、南北の交通を考えると川を渡るのにいちいち渡し舟を待つ、というのは時間を大きくロスすることになります。さらに大阪湾と川を行き来する船と渡し舟は航路が交差するので、安全面からも問題がありました。通常の架橋には相当の高さを要するし、可動橋(跳ね橋)の案もありましたが実現はしませんでした。

それを解消するため、昭和十年(1935)12月8日から「安治川隧道(すいどう:トンネル)」の工事が始まりました。安治川の河底を横断する長さ80.6m、幅11.4mのトンネルは昭和十九年(1944)9月15日に完成しました。

安治川トンネル南側出入口 エレベーターと階段があります

南北双方にエレベーターと階段が設置され地下に降り、トンネルを渡って対岸で同じくエレベーターか階段で地上へ。自動車もこの方式(人用と別に車用エレベーターを設置)で川を渡っていました。大阪の空襲にも損傷を免れています。

戦後の昭和36年には交通量はピークとなり、1日に歩行者約8500人、自転車約4600台、自動車約1200台を記録。その後、河口側に国道が通ったこと、トンネル内の排気ガスとエレベーターを待つ車の渋滞の問題から昭和五十二年(1977)に自動車の通行は中止されました。が、自転車と歩行者の通行は今も行われています。

河底を通る自転車・歩行者用の通路(幅員は2.4m)

日本初の沈理トンネル、「安治川隧道」は平成18年(2006)に、「日本土木遺産」に認定されました。一日の利用者数は6000人にも上り、地元市民にとってかけがえのない交通手段です。

次回はまた新田開発の話に戻ります。

新田花実が咲くものだ2

前回「大和川の付替工事」についてご紹介する、と書いたのですが、江戸時代の大坂の治水工事の歴史をご紹介するにあたって、付替工事の20年前、貞享元年(1684)に行われた安治川(あじかわ)開削工事について触れておくことにします。

安治川 手前の鉄橋は阪神なんば線安治川橋梁 奥はJR環状線の鉄橋

さて、大坂における大きな河川は2つ、淀川と大和川です。前者は琵琶湖から、後者は「大和」の名からも推測できる通り奈良(桜井市北東部)から流れてきます。現在でこそ大和川大阪市堺市の境界線となって大坂湾に注いでいますが、これは付替工事によるものです。それ以前は幾筋にも分かれながら北へ曲がり、大阪天満橋近辺で淀川に合流していました。

流域では叛乱の被害が相次ぎ、明暦三年(1657)河内国河内村今米村(現在の東大阪市)の庄屋、中甚兵衛(なか じんべえ)が江戸へ行き、付替えの嘆願を行っています。それ以降、甚兵衛は「北へ曲がる流路を西に付け替えていただきたい」と訴えを繰り返しました。46年後、最終的にその願いは聞き届けられているわけですが、付替え工事が検討されている中、「付替工事を行わずとも、洪水対策はできる」との意見が採用され、そのための工事が行われることになりました。

その意見を出したのが江戸時代初期の豪商、河村瑞賢です。

安治川のほとりに建つ河村瑞賢紀行碑

東北地方から江戸に米を運ぶための「東廻り航路」「西廻り航路」を開いた瑞賢は、淀川の河口にあった九条島が川の流れを妨げていることが原因で水害が発生しており、この島を開削し、曲がりくねった古い川を真っすぐな川を造れば水害は治まると考えたのでした。

貞享元年(1684)に始まった工事によって九条島を切り開き、3kmに渡る直線の水路を作りました。当初「新川」とか「新堀川」と呼ばれていたこの川は、元禄十一年(1698)にこの地が安らかに治まるようにという願いも込めて「安治川(あじかわ)」と命名されました。ちょっと話は逸れますが、次回はこの安治川にある珍しいトンネルをご紹介します。

新田花実が咲くものだ

舟を編む」が第四話まで進みました。回を追って面白くなっていて、原作にはない岸辺みどり(ドラマの主人公:池田エライザさん)の家庭事情などもこれから描かれていくようで、先が楽しみです。言葉は生き物で変わっていくものですが、その変化にも歴史があると思うと言葉も立派な歴史なんだな、と思います。

さて、大阪の片町線(別名:学研都市線)の駅にそのものズバリの「鴻池新田」駅があります。大阪駅からだと直接は行けませんが、京橋駅で乗り換えて25分足らず、大阪駅から徒歩5,6分の北新地駅からだと乗換なしの20分で着きます。

片町線学研都市線鴻池新田駅 隣の駅も由緒ある地名です

駅の名前だけでなく、地図の町名にも「鴻池本町」(駅北側)、「中鴻池町」(南側)が見えます。ちなみに駅のある場所は「西鴻池町」、東側に「鴻池本町」「鴻池町」などの町名が残ります。

鴻池新田駅周辺の地図

「鴻池新田」というからには、鴻池家がこの場所を開発して田んぼにした、というところまでは想像できるものの、元々はどういう場所だったのでしょうか。

現在「河内平野」となっている場所にかつて「河内湖」という湖がありました。紀元前6000年までさかのぼると「河内湾」といって海だったのが、大和川や淀川の上流から流れる土砂によって海と隔てられて湖となったものです。

海の水が閉じ込められてできた湖ですので、この時点では塩水湖でしたが、長い間川から淡水が注ぎ込まれて淡水化しました。

江戸時代初期までに「河内湖」は土砂流入でその規模は縮小、2つの「池」と周辺の湿地帯へと変貌しています。2つの池とは大東市周辺の深野池(ふこのいけ)と新開池(しんがいけ)です。

鴻池新田はこの新開池のあった場所を開発したもので、宝永二年(1705)から工事が開始されました。同じ時期にもう一つの池、深野池でも新田開発が行われ、深野南新田、河内屋新田が生まれています。

この時期河内において新田開発が盛んに行われたのは、前年、宝永元年(1704)に行われた大規模な治水工事がきっかけでした。この大工事「大和川付け替え工事」については次回で。

 

貸した金返せよ~♪ 借金大名

今池鴻池家が本格的に大名貸を行ったきっかけとなったのが、岡山藩池田家の蔵元(くらもと)・掛屋(かけや)の双方を任されたことでした。

後楽園からの岡山城天守

蔵元というのは、文字通り蔵の元締役。大坂には各藩の年貢米などを保管するための蔵がありますが、蔵の中のもの(蔵物:くらもの)を保管・管理するだけでなく、換金する業務も行います。委任元(雇い先)である岡山藩の利益となるよう、相場勘を働かせタイミングを見はからって高く売ることが求められます。

掛屋は蔵物を売った代金の保管・管理と、求めに応じて金銭を国元や江戸に送る(為替小切手の形で)仕事です。岡山藩に続いて、広島藩の掛屋も務めました。

つまり、藩の産物の換金と資産管理の双方、つまり財政を任されたわけですが、藩との関係が深くなり、藩の手元資金が不足した場合などには「前貸し」することも発生します。これが「大名貸」となっていきます。

三代目善右衛門のときには、大名貸の相手となった藩の数は32にも達しました。最大の大名である加賀藩前田家、熊本藩細川家などの西国の外様大名だけでなく、尾張紀州といった御三家の一部までもが名を連ねています。各藩から「藩士」としての待遇を受け、俸禄を得ているのですが、この時期の各藩からの俸禄を合わせると一万石を越えていたといいます。。

千両箱(造幣博物館)

大名貸しの利息は年10~12%位といいますから、その利益は大きなものでした。ただし、藩が改易になって取り潰されたり、踏み倒されることもあり、決してリスクのないビジネスというわけではありません。そういった危機管理にも優れていたのでしょう、三代目善右衛門宗利(むねとし)の代に今橋鴻池家は最盛期を迎えました。

さて、この宗利、新たな事業を始めるのですが、この話は次回に。

浪花ともあれ 先立つものは銀2

秤量貨幣(しょうりょうかへい/ひょうりょうかへい、とも)は現在社会においては、公式に流通している国はありません。江戸時代の金貨といえば小判を思い浮かべますが、銀の場合貨幣といっても丁銀は小判のような整った形ではありません。

江戸時代の銀貨(大阪造幣博物館)

金貨でいう小判にあたるのが「丁銀」(ちょうぎん)ですが、元々棒状の銀塊を示す言葉だったようです。上の写真を見ても、小判ぽい楕円形のようではあるものの、整った感じではありません。その重さは43匁(約160.4g)が目安ではあるものの、30数匁~40数匁(120~180gくらい)と一つ一つがまちまちでした。

金貨・銀貨の交換にあたっては、重さの定まった小判に対して、一定の重さの銀を計測しなければいけません。そのため、重さの調整に使われるのが上の写真下方の「豆銀」でした。そしてその重さを正確に測るために「両替天秤」と分銅が用いられたのです。

両替天秤と分銅(造幣博物館)

現在こうした計量を行うことはまずなくなりましたが、「分銅」の形は銀行の地図記号としてその名残を残しています。

現在でも円貨から外貨の交換に手数料(スプレッド)が取られるように、江戸時代の両替商も1~2%の手数料を取りました。江戸の金が上方では通用しないため、廻船によって商品が売れればその分両替が必要となり、両替商には手数料が入ります。

また両替だけでなく、送金方法としての為替(手形)の発行や預金・貸付などの現在の銀行と同じような業務を行っていきます。

鴻池善右衛門(初代)は寛文10年(1670)には、幕府御用を務める「十人両替仲間」の一員となりました。仲間の一員となったことで、両替屋仲間の監督機関の役割を果たし、公金取扱という重要な役目を負っています。そしてこの時代から大名に対して融資を行う「大名貸し」を始め、大商人への階段を登っていくのですが、その話は次回以降で。

 

 

 

浪花ともあれ 先立つものは銀

慶長十四年(1609)に江戸幕府は金1両=銀50匁(目)=銭4貫文(4000枚)と定めました。これを御定(おさだめそうば)といいます。つまり金銀銭の交換比率を固定化させたわけですが、これが形骸化します。

というのも、江戸を中心とする東日本では金が流通するのに対して、大坂・京都を中心とする西日本では銀が流通、更には、一般的に流通するのが銭、という実態があり、その需要と供給のバランスによる変動相場に変わっていきました。(ただし北陸・東北地方は銀が流通していました。海運により大坂経済の影響が強かったためでしょう)

金では天下は回りまへん! 江戸前期の小判(大阪造幣博物館)

佐渡甲州などの金山が東国、石見や生野など銀山が西国にと、有力な産出地が東西に偏っていたことに加えて、海外との貿易に関係があります。「鎖国」という言葉が教科書から無くなったそうですが、交易のあった中国(明・清)では銀本位制がとられていたこともあり、交易には銀が使用されていました。

このように、一国の中に金銀銭という三つの通貨が成立し、その間で相場が変動していたのが江戸時代でした。わかりやすく言えば、日本国内で円とドルとユーロが流通している状態です。

そうなると、今や空港だけでなく、街中にも見られるようになった為替を両替する店が必要になってきます。これが「両替商」です。三通貨をその時の需要供給に合わせて交換する必要があるのですが、「両替商」のシンボルとなっている器具が「両替天秤」というもの。

両替天秤(尼崎信用金庫:尼信会館)

現在の円・ドル・ユーロを両替するのにこんなものは使用しませんが、当時は小判・丁銀という貴金属の現物を交換するわけで、そのために重さをはかるための器具が必要だったというわけです。

それも、銀が目方を定めて通用する秤量貨幣(しょうりょうかへい/ひょうりょうかへい、とも)だったからですが、この耳慣れない言葉のご紹介については次回で。