おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

蘭学ちょっと始め3

跡目を妹婿に譲り藩の職を辞したのは、約1年の長崎留学の後ということから宝暦三年(1753)頃ではないかと考えられます。その後、京都・大阪で学び、江戸へ出たのが宝暦六年(1756)のこと。神田の田村藍水(たむら・らんすい)の下で本草学を学びます。本草学とは、植物学ととられがちですが、日本においては薬草関連の学問だけでなく、動植物や鉱物なども網羅した博物学者と考えるのがわかりやすいでしょう。

藍水の下で物産博覧会を度々開催(主催は藍水ですが、企画・提案は源内です)し、世間に名前を知られるようになりました。時の老中、田沼意次とに知られるようになったのも物産博覧会の開催を通じてのことといわれます。

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田沼意次墓(駒込 勝林寺)

物産博覧会とは、薬用になる動植物、鉱物を全国から集めたものですが、当時は、招待者のみが参加できるもので、ごく内輪で開催されていたものでした。それを源内が、全国に物産を求め、参加者の自由度を増して開催することを提案・実行したのです。

宝暦九年(1759)には、江戸での源内の評判を聞いた旧主、高松藩松平頼恭公により待遇を引き上げて再度召し抱えますが、高松での生活に飽き足らなかったのか、江戸に戻るため、二年後には再び辞職を願い出ます。

願いは聞き届けられましたが、このとき「奉公構え」となり、自由の身となるのと引き換えに、幕臣への登用を含め、他の藩への仕官の道が閉ざされてしまいます。

翌年の宝暦十二年(1762)、に開催された「東都薬品会」は、当時としては画期的な規模で開催され、源内の名を更に高めました。

源内の話、続きます。