おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

台場だったの魂宿し~レインボーブリッジの傍で

工事は嘉永六年(1853)八月末に着手され、昼夜兼行で進められました。翌年には再びペリー率いる艦隊がやってくるわけですから、急いで工事を行うのは当然と言えば当然ですが、土木労働に従事した人夫の数は第一・第二・第三台場築造時で5,000人にも及び、総築造経費は75万両という膨大な費用がかかりました。

その膨大な費用のゆえ、全部で十一基の築造計画のうち、一~三番は嘉永六年(1853)八月末の起工⇒翌年四月に完成しています。続けて嘉永七年(1854)一月起工の五・六番の台場は同年十月に完成しました。しかしながら第四番・七番の工事は途中で中止となり未完成、八番以降の台場に至っては未着工のままでした。結局一~三番、四・五番と、別途品川御殿下に建設した台場の六基のみ完成し、台場築造事業は終了しています。途中で終了せざるを得なかったのは、幕府の財政難によるものでした。

台場全景 下の図が築造当時の台場配置です

現在、ゆりかもめお台場海浜公園駅」から歩いて15分くらいのところにある台場公園は、そのうちの第三台場を公園として残したものです。

台場公園 案内板

湾内にあった六基の台場のうち、現在まで残っているのは台場公園となった第三台場と、その隣の沖に造られた第六台場のみで、国史跡となっています。それ以外の台場はというと、昭和三十年以降に東京湾の埋め立てや開発が進んだ結果、埋立て中に埋没したり、東京湾の航路確保のため撤去せざるを得なくなったため姿を消したものです。

レインボーブリッジから見下ろした第三台場(台場公園)

築造計画を立てた英龍からすると、品川側(東京湾西側)のみで終わってしまったのでは、海防上用をなさない残念な結果でしたが、ペリーの再来航も、約束の一年後ではなく、わずか半年後の嘉永七年(1854)一月であったため、いくら突貫で昼夜兼行して進めても間に合うはずもない工事でした。

次回以降もお台場の話が続きます。