おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

2024-01-01から1年間の記事一覧

嗚呼、黄昏のとんぼよ何処へ

鴻池家の話の途中ですが、この三連休、単身赴任先の大坂から東京へ、また大阪へのとんぼ返り。土日は都内で忙しく動き回り、本日は午後大阪に戻ります。 期間限定のイベントなど、この場でご紹介していくことにしました。 土曜日は新橋、パナソニック汐留美…

あっち行け、そっち行け、鴻池7

「酛つくり」の説明の前に、酒造りの行程で使用した写真撮影の場所について解説します。まずは伊丹の酒造りの資料館としての「伊丹ミュージアム」から。 伊丹市内にある「伊丹ミュージアム」はJR伊丹駅、阪急伊丹駅の双方から徒歩圏にあって、美術館や博物館…

あっち行け、そっち行け、鴻池6

生米のでんぷんだと発酵が起こりにくいので、蒸すことで、でんぷんに水と熱を加えてゲル状に変える(アルファ化)そうです。前回の写真のような羽釜だと、何となく米を炊くことを連想しますが、炊いても蒸しても米はアルファ化します。では、なぜ「蒸す」方…

あっち池、そっち池、鴻池5

「諸白」(もろはく)について説明する前に、日本酒がどういう工程で発酵するかを説明していきます。日本酒は御存じの通り、米から作られますが、 ①精米(せいまい):玄米から糠を取り除き白米にします。糠や白米でも表面に近い部分は雑味の原因となるので…

あっち行け、そっち行け、鴻池4

大坂今池の鴻池本宅のあった場所は、現在「大阪美術倶楽部」となっていますが、そのHPで「鴻池家の歴史」が紹介されています。 それによると、 大伯父に養われた山中新六幸元は15才で元服し、その後深く考える所があり両刀を捨て、商いで身をたてようと決心…

あっち行け、そっち行け、鴻池3

伊丹市の市域を地図で見てみると、東西と南北がそれぞれ5kmほど、面積を調べたらまさに25㎢でした。その市域の北西部、JR伊丹駅からは4㎞位離れたところにバス停「鴻池」があります。 まさに地名が「鴻池」 前々回ご紹介した山中幸盛(鹿介)の長男で山中…

あっち行け、そっち行け、鴻池2

JR駅伊丹駅のすぐ西側に石垣があって、階段を上ると礎石や井戸などの遺構があり、史跡公園として整備されています。南北朝から室町時代にかけ「伊丹氏」がこの周辺を統治し、室町時代には細川氏や畠山氏の被官、つまり配下にあったようです。 その後、織田信…

あっち行け、そっち行け、鴻池

ようこそのお運び、厚く御礼申し上げます。よくよく見なおしてみると前回この「ようこその~」のフレーズを使ったのが昨年10月26日、その前が8月20日で、随分と長くテーマを引っ張ってました。どちらのテーマもそんなに長く続くとは思っていなかったのですが…

さまよえる葵 だんだん

「大御所時代」をwikipediaで調べると、その期間は寛政五年(1793)から天保十二年(1841)とあります。松平定信の失脚で始まり、家斉の死でピリオドを打ちました。 家斉の死の2年前から老中首座となっていた水野忠邦(みずの ただくに)は、大御所時代の放…

不修身斉家痴国弊天下

大塩の乱の起きた天保八年(1837)4月に徳川家斉は将軍の座を実子家慶に譲りますが、その後も「大御所」として、その死までの約4年間実権を握り続けました。歴史上「大御所時代」とは、この4年ではなく将軍在位51年と併せた期間を指します。 文化・文政期を…

葵に塩 番外編 平野へGO

前々回「葵に塩3」で、美吉屋の奉公人が平野郷に戻った際に漏らした言葉が大塩の潜伏先判明のきっかけになった、という話をご紹介しました。本日その平野の街歩きをしたので、この機会に平野郷の歴史について少しご紹介します。(大塩の流れで訪れたのではな…

葵に塩4

3月末に大塩親子は焼死したものの、この事件関係者への処分が終わったわけではありません。最終的に1000人以上が取り調べられ、そのうちの800人ほどが処分を受けていますが、それが決定したのは乱から1年半を経た天保9年(1838)8月のことでした。 大塩親子…

葵に塩3

潜伏先が漏れたのは、美吉屋五郎兵衛のところに奉公に来ていた娘が、親の病気で暇をもらい、実家の平野郷に戻ったことでした。平野郷は現在の大阪市の東南部、平野区のあたりですが、この地は当時の大阪城代、土井利位(どい としつら)の領地でした。 利位…

葵に塩2

大塩が潜伏していた美吉屋五郎兵衛は、塩田五郎兵衛といい、大塩の妾「ゆう」の姉の「つね」が五郎兵衛の妻でした。また、大塩家四代の佐兵衛の妻の実家が塩田家ということで、遠縁にあたります。染物屋として大塩家に出入りし、乱の際の「救民」の幟や旗な…

葵に塩

反乱に伴う戦闘の意味では半日で鎮圧されたといえますが、首謀者の大塩親子は40日あまりを大阪近郊で潜伏しており、大坂の東西奉行どころか江戸幕府全体がその存在に振り回されます。 逃げおおせると考えたのか、再び決起を考えたのか、というとそういうこと…

大坂の中心で 痛ぁい!を叫ぶ6

放たれた銃弾は大砲方(砲手)の腰に当たります。東町奉行跡部良弼は、味方を鼓舞しまた周囲に奉行方の勝利を知らしめるため、従者に命じ、敵の大砲方の首をとり、槍の穂先に貫いて先に進ませました。(下の写真は赤穂浪士の行列のときのものですが、この時…

大坂の中心で 痛ぁい!を叫ぶ5

東町奉行跡部良弼は馬上の人となり、馬印となる纏(まとい)と案内役の家臣の後に奉行所側の軍勢が続きます。奉行所を出て西に進みます。大塩勢はというと、平野橋を渡ったあたりに集まっていました。下の地図でいうと「平野町通」を東(右方向)に進み、川…

大坂の中心で 痛ぁい!を叫ぶ4

坂本鉉之助の記録で、彼ら奉行側の動きを時間順に追ってみましょう。辰半時といいますから、大塩決起から約一時間経った頃、月番だった坂本のところに、天満で火の手が上がっている、との報が入ります。その火が大塩の決起によるものだと知らされます。未明…

大坂の中心で 痛ぁい!を叫ぶ3

大坂天満の真中で さかさ馬からおっこちた あんなよわい武士見たことない 役高三千ただすてた 大塩の乱のあと、大阪の庶民の間で上のような「ざれ唄」が流行りました。(「役高三千」のところを「鼻紙三帖」とするものもあります) 乱の鎮圧に乗り出そうとし…

大坂の中心で 痛ぁい!を叫ぶ2

決起の情報が漏れてしまったことを大塩がどのように知ったか、をここで明らかにしていかないといけません。 大阪西奉行の堀伊賀守は、参加者に名を連ねていた門人2名が「泊り番」として奉行所内にいることを知り、両名を捕縛しようとします。それに気づいた…

大坂の中心で 痛ぁい!を叫ぶ

「造幣局の通り抜け」として春に桜の名所となっている造幣局、このあたりが天満一丁目にあたります。その正門前の道路を西に100mほど西に進むと「大塩の乱槐の碑」があります。当時ここは東組与力、朝岡助之丞の役宅庭跡でした。その庭には槐(えんじゅ)の…

礼賛と塩対応4

版木を32分割した、というだけではどういうことかわかり辛いので、最初の数行分ですが原文と版木に彫られた部分を比較してみます。 大阪守口市にある大塩門弟の書院跡(豪農の中にも大塩の弟子がいました) 「四海こんき」【ういたし候ハゝ】《天祿ながく》…

礼賛と塩対応3

飢饉により大坂でも米不足が発生しました。天保7年(1836)秋ごろから大坂東町奉行の跡部良弼は大坂の米を江戸に廻送することを命じます。この廻米は新将軍宣下の儀式費用を捻出するための施策でした。その米を集めるため、跡部は京都から大坂まで米を買い求…

礼賛と塩対応2

「大塩平八郎の乱」については、現在関西方面の街歩きで旧跡を巡っているところで、改めて詳しくご紹介する機会を設けようと思います。ここでは家斉~家慶の時代背景を交えながら、ざっとご紹介していきましょう。 この反乱は幕府直轄地、「天下の台所」であ…

礼賛と塩対応

この度の震災の被害に遭われました皆様に心よりお見舞い申し上げ、一日も早い復興を祈念いたします。 さて、ドラマ大奥では触れられませんでしたが、原作コミックには家斉は臨終の前に次のようにつぶやいています。(一部抜粋) わしは女職に溺れ 幕府の財を…