おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

2022-01-01から1年間の記事一覧

蒸気機嫌で乗り乗り3

これまで、このブログで江戸時代以前の日付を記載する場合、日本古来の太陰暦による表記(旧暦)で表してきましたが、モレルと鉄道の建設についての記述に関しては、元号表記はそのままに、太陽暦(西洋暦=新暦)で表します。 前回ご紹介したように、モレル…

蒸気機嫌で乗り乗り2

この稿を書くにあたって調べてみたところ、日本における鉄道の建設計画は、江戸幕府の時代にすでにあったというのを知りました。慶応三年12月23日、(西暦【太陽暦』でいうと1868年1月17日となり年が改まっています)に、アメリカ領事館書記官のポートマンに…

蒸気機嫌で乗り乗り

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。 JRの駅構内のいろんなところに、「鉄道開業150周年」のポスターが貼られています。10月14日の「鉄道記念日」は、明治5年(1872)に新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開通したことを受け、平成六年(1994)に制定され…

悲願花と椿

彼岸花について書いた前稿の最初に、新美南吉の代表作「ごんぎつね」と彼岸花のイメージについて触れ、作中では兵十の亡母の葬列の行きと帰りのシーンにその記述があることをお伝えしました。 葛飾区宝蔵院の彼岸花(2022年9月23日撮影) 彼岸花の名所につい…

彼岸 GOGO7

千葉県八千代市の「村上緑地公園」も彼岸花の群生地として知られており、公益財団法人八千代市地域振興財団と市民ボランティアの方々によって、生育が整備:管理されています。この時期は多くの車による来園があり、誘導及び場内整理の要員配置のための費用…

彼岸 GOGO6

松戸市金ケ崎にある「祖光院」は、公式HPによると、天明年間に建立された曹洞宗のお寺です。檀家さんのお彼岸のお参りの際に楽しんでもらおうと、平成5年頃から彼岸花を植え始め、次第にその数と面積を増やしてこられたそうです。当初は100球くらいの植栽だ…

彼岸 GOGO5

別名が全国各地にあることからわかる通り、北は北海道、南は沖縄に至るまで、彼岸花は生育していますが、その場所は土手・堤・田んぼのあぜ道・墓地などです。これらに共通するのは、「人の手で掘り返された」あるいは「掘って積み上げられた」地で、かつ「…

彼岸 GOGO4

最初に最もメジャーな別名「曼殊沙華」を紹介してしまいましたが、地方名まで含めると1,000以上の別名があるそうです。ある意味日本全国で花が咲き、生活になじんだ身近な花であることの証左といえるでしょう。 その色から名付けられた思われる別名は、その…

彼岸 GOGO3

彼岸花の別名として最もよく知られているのは「曼珠沙華」(まんじゅしゃげ・まんじゅしゃか)でしょう。私の年代だと、山口百恵さんのヒット曲としても知られます。 「まんじゅーしゃかー 恋する女は まんじゅーしゃかー」(小岩 宝蔵院) 「法華経」の中に…

彼岸 GOGO2

彼岸花は独特な形をしています。花弁がくるっと反り返っているだけでなく、雄しべと雌しべが髭のように花弁より外に突き出て、線香花火のようにも見えますし、上から見ると口を開いた生物が、触手を周りに伸ばしているようにも見えます。英語で「red spider …

彼岸 GOGO

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。秋のお彼岸のあたり、東京でも川べりの土手やお寺の境内で見かけるのが赤い「彼岸花」。花の色もさることながら、花の形も特徴的です。 都内 中川北側の川べりの彼岸花 新美南吉の童話「ごん狐」、私の中ではなぜだか…

「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」5

楠葉台場完成の2年後、慶應三年(1867)10月14日、第十五代将軍、徳川慶喜は大政を奉還します。その後12月9日に王政復古の大号令が発せられると、親徳川派の譜代藩・旗本の諸兵からは薩摩を討伐せよ、という声が上がります。衝突を避けるため、慶喜はひとま…

「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」4

今回ご紹介する「楠葉台場跡」(くずはだいばあと)は一見目立った石垣もなく、芝生の広場のようです。 「国史跡樟葉台場跡」の看板がなければ、単なる広場に見えます 平成二十三年(2011)国の史跡に指定され、現在「楠葉台場跡史跡公園」として整備されて…

「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」3

品川台場を含め、これまでご紹介してきた台場は、、土塁や石垣が残っているだけなので、だいぶ想像力を働かさないと往時の姿をしのぶことができません。石垣だけで天守閣や櫓のない城跡のような感じでしょうか。 今回ご紹介する西宮砲台は、この場所に1基造…

「防備に何が要るやろか?」「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」2

黒船が去ったことで一応の危機は去りましたが、この事件で大阪湾の無防備さが際立つことになりました。 本陣が置かれた「天保山」の名前は、この事件の二十数年前の天保年間に、安治川(当時は淀川の本流にあたりました)河口の土砂を浚う工事(浚渫工事)の…

「防備に何が要るやろか?」「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。 幕末、ロシアのプチャーチンが、日本と国交を結んだ(日米和親条約)話は、江川太郎左衛門英龍のところでご紹介しました。クリミア戦争の影響もあって、東アジア一帯を転々としながらの航海であったことも述べました…

名番組に挑戦を~「名建築で昼食を」を推してます

水曜深夜(つまり木曜にかけて)に放送されている「名建築で昼食を」(テレビ東京2:35~ テレビ大阪0:00~)を楽しみに観ています。放送時間が時間なので録画での視聴ではありますが。(逆にこの時間リアルタイムで視聴されている層ってどんな方たちなんだ…

虎は死して皮を残す (英)龍は死して永遠(とわ)に残る4

韮山反射炉のすぐ横に川が流れています。反射炉建造の際、この古川を改修し、流れを反射炉側へ川筋を曲げました。 改修により流れを曲げられた古川(写真左側) 反射炉周辺の地図 古川が「へ」の字に湾曲していることがわかります 曲げた川から取水口から木…

虎は死して皮を残す (英)龍は死して永遠(とわ)に残る3

現在の韮山反射炉は、外壁に巡らされた✖が印象的ですが、これは昭和三十二年(1957)に補修された際に鉄骨トラスを設置して耐震用の補強を行ったためで、当初は煉瓦を積み上げた表面に漆喰が塗られていたようです。ちょっと想像がつかないかも知れませんが、…

虎は死して皮を残す (英)龍は死して永遠(とわ)に残る2

500人のロシア人たちは3回に分かれて帰国しています。ヘダ号が完成する1ヶ月ほど前の2月25日に、159名の乗組員がアメリカの商船カロライン・E・フート号に乗船して戸田港を後にしています。プチャーチンが商船の船長にカムチャッカへ送ってもらうべく傭船契…

虎は死して皮を残す 龍は死して永遠に残る

英龍が亡くなったのは正月16日ですが、その死の公表(発喪)は一か月以上先の翌2月26日のことでした。後継ぎ(継嗣)の手続きがされる前の急死であったことから、公表を遅らせたのです。正月22日、英龍の遺体は江戸の屋敷を出発し韮山に向かいましたが、棺を…

涙、武士だよ人生は9

「ディアナ号」から救出されたロシア人乗組員約500人は陸路戸田村へと向かいました。一方幕府から造船の指揮を任じられた英龍も、12月6日韮山の地から戸田へと向かいます。 戸田で西洋船建造の方針が決められました。「ディアナ号」に乗船していた技術将校モ…

涙、武士だよ人生は8

英龍はその申出を受けました。宮島村から戸田村までの海沿いの漁師たちに、漁船で「ディアナ号」の曳航に協力するようお触れを出し、12月2日早朝、百艘以上の漁船・荷船が宮島村沖に集まりました。「ディアナ号」に数本の元綱をとりつけ、そこから綱を枝分か…

涙、武士だよ人生は7

宮島村の村民たちが、海岸に近づいたボートに向かって泳ぎだします。ボートに結ばれた太いロープを手に取ると、今度は浜向かって引き返し、浜に残っていた男女に渡すと一緒にロープを浜の松の木の幹に結び付けました。 2日間かけてディアナ号乗組員の救出作…

涙、武士だよ人生は6

この戸田の地が修理港として選ばれた最大の理由として、海に面した西側以外の三方が山に囲まれており、英仏と交戦中のロシア船ディアナ号にとって、敵の目に触れにくいということがありました。 Google mapより 下田の反対側で、韮山のある伊豆の国市から近…

涙、武士だよ人生は5

この下り、話の内容にまつわる写真がなく、無理やりこじつけた写真が混じりますがご容赦ください。安政東海地震後の津波で、ディアナ号は前回ご紹介の損傷の他、大砲の下じきとなった水兵1名が死亡、2名が重傷を負った、と記録されています。 大和ミュージア…

涙、武士だよ人生は4

プチャーチンが幕府の要請を受けて下田に来航したのは10月14日のこと。これまで表記してきた日付は日本の暦によるもので、ロシアを含むヨーロッパの暦では12月3日にあたります。ここでその話をしたのは、ここから先、日本暦では年末なものが、西洋暦では翌年…

涙、武士だよ人生は3

プチャーチンは長崎⇒上海に移動しますが、長崎に滞在しているとクリミア戦争の様相やアジアにおける、敵国イギリス・フランスの情報を入手することができない他、船のメンテナンスもできない状態だったからだと思われます。 その間、英龍は品川台場の築造に…

涙、武士だよ人生は2

前回、年表形式で英龍に関わる出来事を並べていきましたが、ここに「プチャーチン」と「安政東海地震」「ジョン万次郎」というこれまで出てきていないワードが出てきました。 韮山江川邸の「坦庵公と一緒に写真を」フレーム プチャーチンは、ロシア帝国の海…

涙、武士だよ人生は

この前後の江川英龍と日本を取り巻く状況は目まぐるしく、それに振り回された多忙な日々が続いています。先にあらすじを書くようですが、何が何だかわからなくなる(書く方も)ので、先に年表形式で時系列に並べます。 嘉永六年(1853) 6月 ペリー(アメリ…