おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

2021-01-01から1年間の記事一覧

蘭世の漢友

解体新書の図を担当した小田野直武について、以前に触れました。源内の刃傷事件が起き、投獄された直後、直武は拝命していた「銅山方産物吟味役」の役を解任されただけでなく、「遠慮謹慎」の刑罰を言い渡され、角館に帰ることとなります。この刃傷事件に秋…

蘭学こと(ば)始め9

奉行所に出頭した源内は、小伝馬町の牢屋に入れられますが、ひと月ほどの後、牢内で病死します。先に紹介した『聞まゝの記』の話によると、牢の中で破傷風に罹ったのが原因といいます。この他にも人を殺めてしまった自責の念にかられて絶食⇒餓死、という説も…

蘭学こと(ば)始め8

この事件の詳細については、世の中を賑わせた割に、同時代に詳細を記したものがなく、不明な点が多いとさますが、ここでは、最もよく知られている話を紹介します。 彼の出身地、高松藩の家老であった木村黙老が遺した『聞まゝの記』で紹介しているものです。…

蘭学こと(ば)始め7

平賀源内は、各地の鉱山事業や、製鉄に必要となる木炭製造の事業を手掛けますが、相次いで失敗、陶器など工芸品の製造も中途半端に終わるなど、起業家としては成功することはありませんでした。現在であれば、アイデァに対して投資する資本家が名乗り出たか…

蘭学こと(ば)始め6

源内が秋田藩角館を訪れた際、宿にあった屏風絵を見て感心し、その作者が直武だったと言われています。このとき源内は45歳、一方の直武はまだ25歳でした。秋田で源内から洋画を学びますが、源内が江戸に帰るのととほぼ同時に、直武は藩主佐竹義敦(曙山)か…

蘭学こと(ば)始め5

解体新書の翻訳が始められたのが明和八年(1771)、ダイジェスト版である「解体約図」の出版が安永2年(1773)です。この前後、平賀源内はどこで何をしていたかというと、まさに日本各地を点々としていました。年ごとの多種多様な活躍と行動をたどっていきま…

蘭学こと(ば)始め4

明和八年(1771)三月四日、骨ヶ原(小塚原)の刑場で腑分けを見学し、その興奮冷めやらず、翌日からオランダ書「ターヘル・アナトミア」の翻訳に立ち向かっていく良沢らの前に、言葉の壁が立ちはだかります。なにしろ、良沢が理解しているオランダ語の単語…

蘭学こと(ば)始め3

青木昆陽に学び、長崎で通詞から若干のオランダ語を学んだ良沢は、『ターヘル・アナトミア』を開きながら、聞き覚えた単語を披露します。「この部分はロングといって 肺のこと、こちらはハルトといって心臓・・・」皆、これまで中国漢方の人体図とは全く違っ…

蘭学こと(ば)始め2

ちょうど同じころ、カピタン(オランダ商館長)江戸参府の際の宿泊地、長崎屋を訪問した中川順庵は、そこで『ターヘル・アナトミア』および『カスパリュス・アナトミア(カスパル解体書)』を見せられます。希望者がいれば、これを譲ろうと言われ、この2冊を…

蘭学こと(ば)始め

ここで、源内のことはちょっと置いて、蘭学の始まりについて考えてみます。 ご存知の通り、江戸時代の日本は中国(明~清)・朝鮮(李氏)・オランダ以外の国とは交流がありませんでした。最初は貿易による交流のみでした。が、八代将軍吉宗の時代、将軍自身…

蘭学ちょっと始め5

杉田玄白は、後に源内が獄死した時に、友人として葬儀を執り行っただけでなく、彼の死を悼んで、一周忌に追悼の碑文を書いたことでも知られています。 平賀源内の墓の横に建つ石碑 裏面に杉田玄白の碑銘が彫られているそうです 当時、オランダ人は毎春、長崎…

蘭学ちょっと始め4

「東都薬品会」には、当時としては斬新なアイデァが盛り込まれていました。まず、引札(ひきふだ)といわれる現在のチラシの配布です。参加者を集めるために、全国の同好者に配布しています。 この引札には薬品会開催の意図として、 ・我が国は動植物、鉱物…

蘭学ちょっと始め3

跡目を妹婿に譲り藩の職を辞したのは、約1年の長崎留学の後ということから宝暦三年(1753)頃ではないかと考えられます。その後、京都・大阪で学び、江戸へ出たのが宝暦六年(1756)のこと。神田の田村藍水(たむら・らんすい)の下で本草学を学びます。本草…

蘭学ちょっと始め2

扉を開くと、屋根に覆われた形でお墓がありました。 平賀源内墓 平賀源内にちなんだ場所で、他に旧跡として伝わっている場所は、隅田川をずっと下った清洲橋の南東、にひっそりと碑が立つくらいです。 平賀源内の電気実験といえば・・ 平賀源内というと「エ…

蘭学ちょっと始め

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。 隅田川にかかる白髭橋の西側、台東区橋場の一角に、住宅に囲まれた築地塀の一角があります。一見お寺のようにも見えますが、こじんまりとしてお堂の建てられるほどの広さはありません。 鉄の扉に閂がかかっています …

トゲと薔薇の日々7

鈴木省三さんが生まれたのが大正2年(1913)。前回ご紹介した「晴世」が発表されたのは平成2年(1990)年のことです。最初に薔薇を育ててきた「とどろきばらえん」は昭和49年(1974)に閉園(京成バラ園芸に吸収合併)し、それから先は京成バラ園芸名義で新…

トゲと薔薇の日々6

京成バラ園の他にも鈴木省三さんの足跡が残されたバラ園があります。京成谷津駅から歩いて5分くらいのところにある谷津バラ園です。 谷津バラ園 住宅地の中に薔薇の聖地が 2021/10/23撮影 もともと、この辺りには「谷津遊園」という遊園地がありました。プー…

トゲと薔薇の日々5

京成バラ園の研究所長に就任した理由として、新品種の育成に、大企業のバックアップが心強いと考えたからですが、実際に薔薇の育種には膨大な時間と手間がかかります。世界に売り出せるような品種を作り出すまでに約10年の年月が必要でした。 1967年、オラン…

トゲと薔薇の日々4

太平洋戦争で海軍衛生兵として出征していた間、奥さんが留守を守り抜きます。食料不足が進む中、すべての土地は農地として転用し、農作物を国に供出するよう求められます。そんな中、奥さんは近所の農家から野菜を買って供出するなどして、「とどろきばらえ…

トゲと薔薇の日々3

「ミスターローズ」鈴木省三(すずきせいぞう)さんは、大正2年(1913)に小石川に生まれました。肺にリンパ腺炎を患い、医者からは、「軍事教練や体育の時間などは休むように」言われるような少年期を過ごしました。天文学者に憧れ、それを目指そうとした時…

トゲと薔薇の日々2

京成バラ園は、千葉県八千代市にあり、1,600種10,000株のバラが植栽されています。 整形式庭園は、中央の「エデンの泉」から楕円形上に広がり、広さは約9,000坪。 庭園内のエデンの泉 開園されたのが1971年ですから、このバラ園だけでも50年以上の歴史を誇り…

トゲと薔薇の日々

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。秋薔薇の季節のうちに薔薇の名所をご紹介しようと、ちょっと中途半端な感じで富士塚の紹介を終わらせてしまいました。 今週木曜午後、駒込の旧古河庭園に行ってきました。5、6月と10、11月は、薔薇の咲く洋式庭園から…

いい富士 観たか 縁むすび10

二度も場所替えを余儀なくされた「大川富士」ですが、別名を「川田富士」と呼ばれていたそうです。「川田耕地」に由来しています。当初は6Mと、今の倍の高さがあったのですが、破却・移築で現在の大きさになったとのこと。 山頂に置かれた祠には、天保2年(1…

いい富士 観たか 縁むすび9

これまで、身禄行者の墓がある駒込を中心として、二十三区内でも中央部分に当たる富士塚を紹介してきました。今回は千住周辺の富士塚をいくつか紹介していきます。千住七福神とも重なっている富士塚もありますので、その時に一緒に見るのもいいかもしれませ…

いい富士 観たか 縁むすび8

今回ご紹介する富士塚は「音羽富士」、護国寺の境内にある富士塚です。 護国寺仁王門 護国寺はまた改めて紹介したいと思っているので、詳しくは触れませんが、「他抜きつ抜かれつ」の項でご紹介した、五代将軍綱吉の生母、桂昌院の祈願寺です。富士塚は浅間…

いい富士 観たか 縁むすび7

今回ご紹介する成子天神社は、丸ノ内線西新宿駅からすぐ。青梅街道に面して入口があり、白っぽい参道が100Mほど続く先に鳥居、楼門、本殿の赤が目立ちます。 新宿のビルの合間に「成子天神社」の文字が目を引きます 天神さま、すなわち菅原道真公をお祀りし…

いい富士 観たか 縁むすび6

千駄ヶ谷富士は鳩の森八幡神社(最寄り 千駄ヶ谷駅)の境内にあります。 鳩の森八幡神社 交差点の入口とは別の鳥居です 八幡神社ですので、祭神は応神天皇・神功皇后ですが、境内に浅間社が祀られ、富士塚は「千駄ヶ谷の富士塚」として知られます。 千駄ヶ谷…

いい富士 観たか 縁むすび5

駒込富士神社は元々別の場所にありました。創建は天正元年(1573)といいますから、徳川家康の入府前のことです。本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立ち、浅間神社を勧請したのが始まりでした。東大の赤門を入った右手の「椿山」という小山です。江戸時代に…

いい富士 観たか 縁むすび4

この項の題名は、「一富士、二鷹、三茄子」をもじったものですが、初夢に見ると縁起の良いものを表しています。享保18年(1733)に発刊された「悉皆世話字彙墨宝」(しっかい せわ じい ぼくほう)という節用集があります。節用集とは、用字・用語集と言い換…

いい富士 観たか 縁むすび3

富士講の祖、角行と、中興の立役者の一人、身禄がともに駒込のあたりに墓があるのには何の縁があってのことなのかはよくわかりません。 数ある富士講の中でも、もっとも古いものの一つといわれる拠点が、駒込富士神社です。駒込の地と富士講は縁が深いようで…